オロロンラインのアイヌ語地名を巡る旅

かつて留萌市と小平町の達布地区を結んでいた天塩炭礦鉄道の路盤は廃線後には道路に置き換えられ、トンネルは拡張されて「萌平トンネル」という名がつけられました。

留萌の萌と小平の平を合わせた名前ですね。
日本の地名って、こんな感じでつけられてしまって、その土地の様子を細かく表現しているアイヌ語地名の様に趣が感じられないんですよね。

北海道の先住民であるアイヌの人達は、自然界と暮らしの間の距離が近かったので、暮らしに密着した土地の命名をしていました。
この旅のスタート地点の「留萌」は、元々はアイヌ語の「rur-mo-ot-pe」。
意味は、「潮が-静かで-ある‐処」です。
漁の為に船を出したりする時等に必要な情報が込められていますよね。

目次

土地の様子を表した地名が続きます

留萌から少し北上すると、小平町に入ります。
この町名は「小平蕊川」という川名から採ったもので、アイヌ語では「o-pira-ush-pet」
「河口に-崖が-ある-川」と言う意味になります。

ご覧のとおり、左側の小平蕊川の河口のそばには、後で作った道路を挟んではいますが、結構急な海岸段丘がそびえたっています。アイヌ語地名の通りですね。

小平から更に進むと、力昼と言う地域に入ります。
力昼は、「ri-kipir」というアイヌ語への当て字で、意味は「高い-海岸の崖」。

こんな感じで・・・

確かに海岸沿いに急斜面が続いています。
道路が無かった時代は、海岸から立ち上がる崖になっていたのでしょうね。
ここ力昼も、アイヌ語地名そのものの地形でした。

さらに北に進むと、ローソク岩と呼ばれている岩礁が見えてきました。

ここは、アイヌ語では「kunne-shuma」(黒い-岩)とでも呼ばれていたのではないかなと勝手に想像。
実際道南の八雲町黒岩地区には、海岸にこの様な岩礁があり、アイヌ民族が住んでいた頃は、「kunne-shuma」と呼ばれていたんだそうですよ。

更に進むと上原「wen-pira」(悪い-崖)と言う地区に入ります。
歩いて海岸沿いを行き来していた時代は、崖崩れなどが多くて危険な場所だったのでしょうか。

そして次は苫前町。苫前は、アイヌ語「toma-o-mai」への当て字でで、意味は「エゾエンゴサク-ある-処」。デンプン質が豊富なエゾエンゴサクの球根が、アイヌの人たちにとっては貴重な食糧でした。
その花の群生地をtoma-o-maiと呼んでいたんですね。

他人の手が加わって変わってしまった場所も

苫前から北上すると、今回の旅の終点羽幌町です。
羽幌の名前の由来には諸説ある様ですが、古い伝承では「hapur」、すなわち「柔らかい」というのが有力な様です。
羽幌川の河口の砂浜が泥っぽくてそう言う地名になったものと考えられます。が・・・

こんな感じで河口は港になってしまって・・・

フェリーターミナルも出来ちゃったりなんかして、砂浜らしい所はもうどこにもありませんでした。
こんな風に開発の為に人の手が加わって、アイヌ民族時代の地名とは違う地形になった場所は多いです。
留萌の近くに鬼鹿と言う集落がありましたが、鬼鹿は「o-ni-usi-ka-pet」(河口に-木が群生する-上-の川)。
どうやらその昔には河口に森があったようですが、今はその一帯が市街地になっています。

こんな風に、アイヌ語地名と地形を照らし合わせながら旅をしてみるのもなかなか楽しいものです。
北海道には数千のアイヌ語地名が残されているといいますから、アイヌ語地名の書籍などを片手に旅してみてはいかがでしょうか?

日本海オロロンラインとは?

石狩市~天塩町までを結ぶ国道231号線、232号線の通称。
天売島に棲むオロロン鳥の名にちなんで命名されました。
オロロン鳥は、ニシンの減少と共に数が少なくなり始め、北海道ではもうほとんどその姿が見られなくなってしまいました。

▶オロロン鳥(ウミガラス)See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

※本記事のアイヌ語地名解説は、山田秀三氏、知里真志保氏の書籍を参考に書きました。

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