知っているようで知らない?富良野ラベンダー物語

富良野のラベンダー畑といえば、北海道の風景として有名で国内外の観光客に大人気のスポットですよね!
でも、なぜ富良野はラベンダーなのでしょうか??

道民はみんな好き?!知っているようで知らない?!
富良野のラベンダーについて考察したいと思います。

目次

ラベンダーの始まりは

北海道のラベンダー栽培は1937年(昭和12年)にフランスから5kgの種が輸入されたことに始まりました。北海道での栽培が適しているとされ、1940年札幌南区の現在の東海大学札幌キャンパスがある所に日本初のラベンダー農場が誕生します。1942年には蒸留器が設置され、日本最初のラベンダーオイル採取に成功しました。

その後、終戦直後の1947年(昭和22年)に虻田郡ニセコ町の農家がラベンダーの栽培をはじめ、その2年後の1949年いよいよ上富良野町での栽培がはじまりました。
ニセコでの栽培は日本海側の気候が適さず短期間で衰退してしまいますが、富良野地域の栽培は順調に普及していきます。

なぜラベンダー栽培なのか

かつて日本では化粧品や香水などに使用される香料はすべて輸入品でした。しかし1923年(大正12年)関東大震災が発生し、復興の中で日本経済の再建には国内産業の育成が急務とされ、輸入品には高い関税がかけられることになりました。

これがきっかけで香料の国産化へ動くことになります。

最初にフランスからラベンダーの種を輸入したのは東京・曽田香料の創業者である曽田政治氏です。日本でラベンダーを栽培しようと、およそ30年もの期間、香料の取引をするフランスのアントワン・ヴィアル氏にラベンダーの種子を送ってほしいと頼みました。ヴィアル氏はその筋違いとも言える頼みを断わらず、私財を売ったお金でラベンダーの種をかき集め送ってくれたのです。

このフランスと日本の国境を越えた信頼関係・友情が今日の北海道のラベンダー畑へと繋がっていくのでした。

北海道農業の窮状

終戦直後、北海道の農作物は収穫量が激減していました。戦時中に国から増産を命令されたため、農作物の安定生産を維持するための輪作体系(同じ土地で作物を交替して栽培する)が崩壊してしまったのです。ジャガイモや小麦の収穫量は激減し、とくに連作を嫌う豆類の収穫量がゼロに。

しかし、1950年(昭和25年)には全国的な農業生産は、ほぼ戦前の水準にまで回復していました。米を除く農産物の価格統制が段階的に撤廃され、ジャガイモや小麦は一般市場で自由に取り引きされるようになり、激しい価格変動や時には暴落にさらされるようになりました。

北海道特産のビートや大豆・麦などが相次いで暴落し、北海道の農家はその直撃をうけてさらなる困窮へと追い込まれていったのです。

ラベンダーに夢を託す

そこへ新しい農作物として登場したのがラベンダーだったのです。

戦後、曽田香料は北海道の自社農場でラベンダーの栽培を行う一方、農家と契約栽培という形で生産拡大を進めていきます。自由取引される他の農作物と違ってラベンダーは価格の変動や暴落がなく安定的に買い取られるため、農家は一定の収入が得られます。

窮地にあった北海道の畑作農家にとって、ラベンダーは希望の灯りとなったのです。

このようにして北海道でラベンダー栽培は急速に広まりました。1970年(昭和45年)には最盛期に達し栽培農家は全道で442戸、栽培面積は235.45ヘクタールに達しました。

悲劇のはじまり

ところが、5年後の1975年にラベンダー栽培農家は92戸、栽培面積も65ヘクタールに減り、約8割ものラベンダー畑が消滅してしまいました。ラベンダーの買い取り価格は据え置きなのに対し、他の農作物は価格が上がっていったためです。そして1976年には曽田香料と農家による契約栽培は完全に打ち切りとなってしまいます。

その原因は3つありました。1つ目は、国産ラベンダーオイルの価格が高いこと。戦時中は中断されていた輸入が再開し、輸入品との価格差が問題視されました。

2つ目は、曽田香料の経営体制が刷新され、総合商社と大手化学メーカーの資本が入ったこと。外部からの役員も加わり不採算部門が整理されました。

3つ目は、化学の進歩により合成香料が広く使われるようになったことです。天然香料は、天候に左右され品質や供給量が安定せず、また栽培される土地により品質にバラツキが出ます。

合成香料の進化により天然香料事業が次第に斜陽化し、事業として成立しなくなったのです。
こうして、30年にも満たない短い歴史で北海道のラベンダー栽培は終えようとしていったのでした。

一枚の写真

終焉を迎えようとしていた、北海道のラベンダーが復活するきっかけ、それは一枚の写真。

風景写真家の前田真三氏撮影の「ラベンダーと十勝岳」という上富良野の風景写真が、1976年版の国鉄カレンダーに掲載されます。当時、国鉄カレンダーは企業カレンダーの最高峰と言われ大きな影響力があったのです。前田氏のこの写真が多くの人々の目に触れ、北海道のラベンダーを世に知らしめたのでした。

中富良野町の農家・冨田忠雄氏は、ラベンダーの買い取りが打ち切られた後も、ラベンダーへの愛着から他の作物への転作に踏み切れずにいました。稲作で収入を得ながらラベンダー畑も維持していたのです。

冨田氏のラベンダー畑は高い丘の斜面にあり、国鉄富良野線の車窓からも並行して走る国道237号線からもよく見える場所でした。そのため、1976年の夏には「ラベンダーと十勝岳」の写真を見て富良野へ撮影に来た人々が、この丘の畑に殺到することに。

冨田氏の畑は、やがて一般の観光客も訪れるようになり年々猛烈な勢いで増加していきました。これが現在の富良野を代表する観光地であるファーム富田へと繋がっていくのです。

おわりに

いかがでしょうか?ラベンダーは自生していたのではなく、北海道の農家の人々や戦中、戦後の日本経済を支えてきた人々に夢を託され栽培されていたのですね。そして冨田忠雄さんがラベンダーに魅せられ栽培を続けていてくれたことで、今の美しい風景があるのですね。

ファーム富田もラベンダー畑の維持費の足しにと、ラベンダーを使ったポプリなどを作って玄関先で販売したのが始まりだそうです。今では国内外からの観光客に大人気のスポットになりました。私もこの夏は感謝の気持ちを持ってラベンダー畑を見に行きたいと思います!みなさんもぜひ美しいラベンダーの花と香りに癒されに来てくださいね!

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