日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道跡を訪ねて

天北炭田最大の炭鉱として発展した日曹炭鉱から、石炭を運び出す目的で敷設された日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道。
1940年に開業し、1972年の炭鉱閉山に伴い廃線となりました。
それから48年が経った鉄道の跡を訪ねてみました。

起点となっていた地点は、今も宗谷本線の中継駅として活躍している豊富駅より南側にありました。
そこから日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道の線路が分岐していました。

駅横には、鉄道事後発生の際に、現場に資材などを運ぶための救援車両が保存されていました。
保存と言っても、かなり傷んで来ている様子・・・

目次

今も残る路盤の跡

日曹炭鉱へ向かう線路は、豊富の駅から緩やかに左に曲がり、市街地へと入っていきます。
路盤の跡は今はサイクリングロードとして活躍中。

道路に転用された路盤上を走ったりしながらしばらく進むと、何やら建物が。

裏に回ると、倉庫の様なものもありました。

線路はこのすぐ近くを通っていたので、この建造物は鉄道に関連するものなのでしょうか。
この他に、橋梁の跡などが残っているそうなのですが、草木が生い茂っていて発見できず。
炭鉱があった地点に向かってさらに車を進めると・・・

かつての賑わいを伝えるものたち

日曹炭鉱の事務所があった場所に、記念碑が建てられていました。
石碑には、「豊富町日曹炭鉱(株)跡地の碑」と刻まれていました。

同じ敷地内には、炭鉱で栄えていた頃の街の様子を伝える地図や・・・

町の賑わいを今に伝える写真が展示されていました。

これは「天塩警察署日曹警察官駐在所」の写真。

こちらは、炭鉱事務所ですね。「全国鉱山保安週間」と書かれたアーチ看板が設置されています。

炭鉱から石炭を運び出す蒸気機関車が写ったものもありました。

消えた炭鉱の街

最盛期には3000人ほどの人口を抱え、学校、病院、映画館などもあったという日曹地区。
炭鉱の街として賑わったその陰には、朝鮮人労働者とタコ部屋という、忘れてはならない負の歴史があります。

戦後の石炭需要の増加により炭鉱の街は広がりを見せましたが、やがてエネルギー政策の転換により、石炭の需要は減少し、1972年には閉山となります。
閉山と共に鉄道も廃線となり、閉山時にいた千人ほどの人達も街を去りました。

日曹地区に入る手前には、何かの施設のものなのか、コンクリート製の遺構がありましたが、街の跡はいまや跡形もなくなり、鉄道関連の遺構も春先でなければ草木の下になり見えない状態です。
約半世紀の時の流れは、人がいた痕跡を消してしまうんですね。
あらためて、人の文明のはかなさと、自然の力の凄みを感じさせられた旅でした。

豊富町 日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道のロケーション情報

豊富駅:北海道天塩郡豊富町字豊富西3条7丁目
※日曹炭礦鉄道で活躍していた蒸気機関車49678号機は、豊臣自然公園内に展示保存されていましたが、老朽化の為に2004年に解体され、今は動輪の一部だけが展示されている様です。

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