北の産業革命「炭鉄港」の発展と衰退

北海道は、明治初期から昭和の高度成長期までの100年間にわたり、人口が100倍となる急成長を遂げす。
石炭と共に栄え、石炭と共に衰退して行くのでした。

目次

炭鉄港とは

かつて北海道という広大な舞台で繰り広げられた「北の産業革命」とも言える「炭鉄港」。
「石炭」「鉄鋼」「港湾」とこれらをつなげる「鉄道」を含めた4つの産業を、空知、室蘭、小樽の三都と結んで、人や知識などの新しい動きを生み出そうとする取り組みです。

「炭鉄港」・・・それは、北海道の発展に大きく貢献してきた、空知の炭鉱遺産や室蘭の工場景観、小樽の港湾に加えて各地の鉄道施設などに点在しており、これら残存物の数々は、現在においても多くの人々の心を揺り動かすほどの圧倒的な存在感を放っています。
当時、100㎞圏内に位置しているこれらの3つの地域を中心に、北海道の人口は約100年間にわたり100倍に増加しています。

圧倒的な存在感を放つ炭坑跡

札幌から北東方面の空知地方に向けて車で1時間ドライブしていくと、街並みの中に突如、高さ44mにもおよぶ巨大な鉄塔が見えてきます。
これは1994年に閉山した住友赤平炭鉱の立坑櫓で、地下650mから石炭を掘り出していた操業当時の炭坑跡をそのまま残しています。

急速な成長を遂げる北の産業革命

明治に入り資源開発と北方警備の観点によって急速に開拓が進められた北海道は、かつてない膨大な費用を投じた開拓計画により、西洋の技術なども積極的に導入され、空知の炭鉱開発を推し進めていきました。明治12年に三笠市の幌内炭鉱が開鉱したことで、わずか3年後にはその石炭を運ぶために、小樽-幌内間の鉄道が完成しています。

同時期には、労働力を確保するために2つの監獄が作られ、このあたりから一大国家プロジェクトとして炭鉄港が注目を浴び始めます。明治30年代に、日本初の本格的港湾として北の防波堤の整備が進んだ小樽は、北海道随一の港町として栄え、第1次世界大戦における世界的な農産物の高騰を背景に、北海道産品の輸出港として更なる発展を遂げました。
室蘭の製鉄は、開始当初こそ順調には行きませんでしたが、昭和9年に日本製鉄と合併したことにより大増産体制へと向っていきます。

戦後の急激な衰退

第2次世界大戦後の昭和40年代から衰退の兆しが現れた小樽は、輸入原材料の調達が難しい日本海側だったことで、徐々に太平洋側の苫小牧港へ、その機能を奪われていきます。
一方の空知と室蘭は、戦後復興のため一時的に炭鉱と鉄鋼業が盛り返しますが、昭和30年代後半のエネルギー革命により石炭に代わって石油が急激に普及したことにより、その勢いは失われていき、その後史上最大の産業転換政策である「石炭政策」によって、5万人超の労働者が空知を去っていきます。

小樽同様、苫小牧港に物流機能を奪われた室蘭も次第にその価値がなくなっていき、日本全体が高度成長へと舵を切る一方で、炭鉄港はその役目をひっそりと終えていくのでした。

※画像はイメージです。

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