旅なんだから〜コロナ禍の今「北海道胆振東部地震」あの日のことを思う

旅先ではいろんなハプニングが待ち構えている。
薩摩街道では放し飼いの猛犬3頭に吠えまくられ、今にも飛びかかって来ようとする中、峠道へ逃げ、難を逃れた。

奥州街道では、突然ブッシュの中から大きな月の輪熊が後方15Mくらいの所に現れ、約10分弱、一緒に同じスピードで歩き進み、私は背中を向けないように半身を後方の熊に向き合う姿勢で、ドキドキしながら走り出したい気持ちを抑えて、人家がある方へ向かったのだ。

2009年から旧道を歩いて繋ぐ旅を重ねていたら、南は桜島、北は竜飛岬までの道が1本に繋がった。
「ヨォ~シ、次は北海道だ!」
という思いを昂ぶらせ、2014年秋から、函館を出発して、宗谷岬を目指す!・・・と勢い込んで、てくてくトボトボ北の大地を歩いていたのである。
すると・・・。

目次

あの日あの時、あの瞬間

2018年9月6日・木曜日、未明・・・あの大地震が起き、私は苫小牧の宿で、飛び起きた。

〝ズズズドドドドドドドォォォォ~~~ンッッ!!!〟

そう表現するしかない、揺れだった。

部屋の中に閉じ込められるのが怖く、ロビーに行くと、本棚が倒れ、花瓶が割れ、悲惨な状況になっていた。
階上から、宿泊人や旅館の亭主なども降りてきて、状況を確認し合い、どうこの後行動すればいいのか、というようなことを誰彼となく話した。
旅館がある沼ノ端は、海がすぐそこだから津波の心配もあるというので、いつでも逃げ出せるように準備を始める人もいた。

公共工事などで長期に宿泊している人が多い宿だったので、スマホやタブレットで皆それぞれ調べてくれ、津波の心配がないことがすぐにわかりひと安心できた。
外に出ると,真っ暗な中を乗用車がビュンビュン走っていた。

「なんか別の情報を聞いた人たちがどこかへ逃げようとしているのだろうか・・・??」などと、勘ぐってしまいたくなるくらいに車が山側に向かって行くのだった。
不安なまま、でも津波が来ないということで安心し、余震におびえながらも、部屋に戻って横になっていると、いつの間にか眠ってしまっていた。

翌朝6:30頃、コンビニに出かけた。商品は少なくなっていたが、パンとつまみ類を購入できた。

午後近く、またコンビニに行ったが、もう商品がかなり減っていた。レジが停電で使えないので、店員さんは電卓で計算していた。
店内も長蛇の列になっていて、中には会計の時に持ち金が不足して、店員さんに毒づいている人もいた。
ドラッグストアやコープにも長蛇の列・・・。

停電で営業できない中、早速弁当を拵えて、店頭で売っている飲食店もあった。
なんとなく沼ノ端駅に行ってみた。地震の情報を伝える新聞記事が貼り出されていた。

みんなのちょっとした知恵と配慮が最も大切

佐竹旅館に泊まっている電話設備工事の仕事に従事している人から、
「こういう時は、公衆電話はすぐに無料で使えるようにNTTはしてくれていると思うので、あれば全国どこへでもかけられて、電波も携帯どころじゃないですよ」
と教えてもらった。そしたら同席していた宿主が、
「ここのすぐ前にありますよ」
と教えてくれた。

そのおかげで、とりあえず連絡しなければならないところや取らなければならない手続きや当然家族へのコールもすべて滞りなく出来た。

並ぶこともあったのだけど、そういう時は1件用件を済ませたら、一旦出て、また並び直した。他の人もそうしていた。

なんだかんだしているうちに、日が暮れてくる。
懐中電灯を宿の主人が貸してくれ、それで長い夜をやり過ごすことになった。

少し前に起こった、タイの洞窟内で行き暮れていたあの子どもたちのことを思う。
ゾッとする。

翌7日午前、宿主に自転車を借りて、苫小牧駅に行く。

切符の払い戻しをして貰おうと思ったが、機械が停電で動かないので全くできない、とのことだった。当たり前か。

市役所へ携帯の充電をしに行く。

人でごった返していた。でもお互いの境遇をわかっているので、穏やかな感じで、みんなそれぞれ弁えた行動をしていた。

誰もが冷静になろうとしていた

置かれている状況を冷静に捉えて、いつもと変わらない日常なんだ、ということを自らに言い聞かせているようだった。

自転車で街を走っていると警官が出て交通整理をしていた。
とんでもない渋滞に、右往左往している感じ。
でも警官がいない別の交差点では、まったく渋滞などしておらず、右折車が行ったら左折車,左折車が行ったら長く待っていた直進車,直進車が行ったら次に長く待っていた車が・・・というふうにお互い譲り合って注意しながらトロトロ進んでいくのである。それが不思議な秩序を作って、渋滞など全くなく次々と車は流れて行く。

ドライバーに任せておけば、秩序を守って運転してくれる、場合もある。

もしもの時は、避難場所になっていた沼ノ端小学校へ行くしかない。
体育館に行ってみると、かなりの人が避難して来ていた。

停電が続いているので、自家発電機を市が用意し、それで館内を照らしていた。

置かれている立場を話し、
「旅の途中なのだけど、二進も三進も行かなくなってしまったら、ここに来てもいいでしょうか!?」
と訊ねたら、

「そんなことになる前に来て下さい・・・」

その言葉にホッとした。

でも、なんとか佐竹旅館に連泊できることになり、避難場所へは行かずに済んだ。
旅館の前の公衆電話が大活躍してくれ、フェリーの切符も予約することが出来た。
その夜、ようやく佐竹旅館の明りが復活する。

翌日、フェリーに乗り、北海道から脱出した。
翌朝、太平洋に雨が落ちていた。

あの〝瞬間〟に犠牲になってしまった方々のご冥福をただただ祈るばかりである。

旅の流儀

私の知り合いは、北海道に上陸して、フェリーから降り、バイクで走り出してしばらくしてすぐ、乗用車に追突され、転倒してしまった。あげくにその車は逃げてしまい・・・。

幸い命に別状はなかったけれど、大腿部を骨折して、立つこともできない状態で道路にそのまま横たわっていたところ・・・。やってきたバイクの人に
「どうしました!?」
と助けられ、救急車の手配から何からをやってもらったということなのだ。

「人生観が変わりました・・・」
と退院して、仕事復帰して来た時、しみじみと話してくれた。

「二度とバイクで北海道へは行かないつもりだし、行けないと思うし・・・」
バイクに乗ることさえ、まだ怖いです、とその時は口にしていた。犯人は見つからず、運び込まれた病院で2ヶ月入院し・・・。

ケガを治して社会復帰を果たした後輩は、その後転職して、今はもう連絡が取れなくなってしまった。でも風の噂で、北海道をバイクで周遊したという話を聞いた。

旅には、やはりどこかに能天気なくらい無神経なところがあってもいいと思う。他人に対しての無神経ではなく、旅そのものに対しての、というとわかり易いかもしれない。

2021年、また北海道に、足あとを刻みたいと思っている。

ワクチン接種も始まった。
それでも新型コロナウィルス感染拡大への恐怖は続いている。

けれど、この1年で学んだ新しい生活スタイルや新たなコミュニケーションの仕方が、これからの日常を、そして旅を・・・きっとこれまで以上のものにしてくれるはずだ。

3年前のあの地震だって乗り越え、みんなで協力してやって来たのだから・・・。

ベッカム隊長
2009年7月から、てくてくトボトボ・・・旧街道を歩いて、フラフラしていたら・・・竜飛岬から桜島までの道が一本に繋がりました。
遥か彼方だと思っていた街に、いつの間にか辿り着くことの喜びは、なかなかのものです!
しかし、一体いつ宗谷岬に辿り着けるのやら・・・⁉
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コメント一覧 (2件)

  • あの日、そんな体験をされていたんですね…。
    私は、あの地震の停電のときの夜空が忘れられません。
    二度と体験はしたくないけれど、忘れてはいけない。
    そんな思いを新たにさせていただきました。

    • 不安に駆られ、飛び出した沼ノ端の旅館の前から見上げた夜空も、鳥肌が立つ程きらめいていて、怖いくらいでした。
      明日が、3・11。
      東海道を歩いていて、その日の行程を早めに切り上げ、浜松のホテルに入ったところで、あの大地震に遭遇しました。
      10Fの部屋にいて、立っていられないくらいでした。
      災害は備えていても、容赦無しなのだけど、備えておかないと、さらに大変なことに巻き込まれてしまうので、常に意識して居ましょうね!

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