クラーク博士と北海道

来てよかった。牧草を食む羊と、その向こうに広がる札幌市街をぼんやりと見ながら独りごちる。慌てて周りに目を向けるが、誰も気づいた様子はないようで、ホッと息をつく。
はじめてひとり旅をしているせいか、それとも普段より感受性が豊かになっているせいか、時々言葉が零れ落ちてしまう。誰にも拾われるはずはないと思っているが、そうとも限らない。
夏本番とは思えない爽やかな風が頬を撫でるのを感じつつ、昨日のことを思い出す。

旅にも慣れてきた二日目。小腹が空いた僕は、朝ご飯とも昼ご飯とも言えない時間に、ふらりと目についたお店に入った。一番人気だというソーセージカレーを夢中で食べ終えると、「そうだろう?」とどこからか年季の入った声が聞こえてきた。視線をお皿から上げて確認すると、店内にはカウンターの向こうにいる男性と僕の二人だけで、すぐに僕に向けられた言葉だとわかった。

なにか口に出していただろうか、と少しの間黙ったままでいると、手を動かしたまま店主がこちらを一瞥し、
「美味しいは何度もらってもうれしいものだね」
と微笑みながら続けた。それでやっと自分がしたことに気付き、顔が赤くなる。グラスに手を伸ばしよく冷えた水をごくりと飲んで、心を落ち着かせる。

「そんなに何度も言っていましたか……」
「いや? 私が聞いたのは一度だけかな。でもそれが、ぽつりと溢れ出た感情のようで、つい返事をしてしまってね。驚かせてしまって、申し訳なかった」

そう言って、店主はさっきまでの作業に戻ろうとしたが、テーブルに置いたグラスの水が少なくなっているのを見て、足しに来てくれる。なにか気の利いた事を言って会話を続けたかったが、思いつかず、脈絡もなく質問をぶつけてしまう。

「おじさんの夢って料理人になることだったんですか?」
店主は一瞬動きを止めたが、話の続きを促すように水を注ぐ。

「ごめんなさい、突然こんなこと言って。ただ、美味しいが嬉しいって言っていた表情が、本当に幸せそうだったから……」
いつの間にか前のイスに座っていた店主は、頭に巻いたタオルを指さして、

「私はね、ラーメン屋になりたかったんだよ。料理人といえば、そうかもしれないがね」
と笑った。そのまぶしさに近づきたくてさらに手を伸ばす。

「そしたら、どうしてカレーなんですか?」
「どうしてだろうねえ。ラーメン屋になりたいと思って、大学を辞めて、北海道をスーパーカブで周って、気付いたら、カレー作ってた。言葉にすると簡潔だけど、いろんなことがあったなあ」

思い出のアルバムを眺めるように、店主がゆったりとテーブルを撫でる。

「悩んだときは動いてみるといい。何事もやってみないとなにもわからん。私の持論だがね」
「……どうして、悩んでいると」
「夏に一人で北海道に旅行へ旅行に来る若者は、たいてい悩みを抱えているものだからね。ふふ、冗談は置いておこうか。君がなにに悩んでいるのかまではわからない。でもね、君は大丈夫だよ」

会話の主導権を握られ、訳も分からないまま首をかしげる。

「美味しいって、そう思えたなら。君の心は大丈夫。たとえ小さくても心の動きを見逃さないで、そうやって、じぶんの声を大切にね」

大丈夫。陽炎のような記憶を頼りに、それから何度も、呪文のように繰り返した。
レンタサイクルをこいで登った丘の上で。
札幌に向かうバスの中で。
テレビ塔の上から、飛ぶ前に。

飛び降りた後の爽快感を思い出してにやけていると、今度こそ、近くにいた人がちらりとこちらを見た。仕方なく、柵から離れて歩き出す。

クラーク像の前には、バスから降りた時と同じく、写真を撮る人たちの列ができていた。ある人は友達と、またある人は恋人と、僕と同じようにひとりの人も、皆楽しそうにクラーク博士と同じポーズを取っている。

記念撮影の列を横目に、クラーク像のそばを通り過ぎ、人が少ない方へと歩いていく。ゆったりと歩きながら、羊ヶ丘公園までのバスで読んだガイドブックの記述を思い浮かべる。

クラーク博士は北海道を開拓するため、札幌農学校に初代教頭として招かれた。わずか8か月余の札幌滞在ではあったが、別れに叫んだ「Boys,be ambitious」は、北海道開拓精神を代表する言葉として有名である。クラークポーズの代名詞ともいえる遠くに向けられた右手は、「遥か彼方の永遠の真理」を指している、らしい。

バスの駐車場に向かう海外からの観光客とすれ違う。人の流れに逆らって歩くと、いろんな表情が目に入る。楽しそうに話している人もいれば、その後ろでは、少し疲れた顔をしている子供が一生懸命大人の影を踏む。

僕は今まで、いいとされている道ばかり歩いてきた。こうすべき。これが正解。これがベスト。そうやって選んだ道の先に、同じ考えの人々が集まるのは至極当然のことで、そんなことすらもわかっていなかった。

もちろんその道が間違っているなんて思わない。往々にして正しくて、人からうらやましいと思われることだって多い。
そうだとしても、僕は疑問を感じてしまった。周りの声が膜を張った外側の世界の話みたいに聞こえてきて、けれど、どうすることもできずに流されて。
自分を変えたくてひとりで海外に行こうとしたけど、そんな勇気はなかった。とにかく遠いところにと選んで来た北海道だけど、心の底から思う。来てよかった。

木漏れ日が模様を作る道を抜けると、「大志の誓い」と書かれたのぼりが風に揺られている。誘われるように事務所に入り、用紙を一枚購入し、クラーク像に近い窓際のテーブルを選ぶ。
北海道になって、たかだか150年とちょっと。僕が旅してきた場所はきっと、寒冷で広大な土地に立ち向かった屯田兵の努力の結晶だ。

ペンを握る手に、無意識のうちに力がこもる。

僕の中にも絶対にある。誰も、僕も知らない未開の地が。それもたくさん。先人たちが拓いてきた歴史を無駄にするわけじゃない。生かして、自分だけの発見をしたい。
思いつくままに言葉を並べ、出来上がった文章の拙さに苦笑を浮かべる。ため息をついて立ち上がり、投函するためにクラーク像を目指す。

さっきまでの行列はどこへいってしまったのか、像の周りは人がまばらになっていた。今のうちにと、クラーク像の足元にかがんで、「大志の誓い」を投函口に入れる。

さて次はどこへ行こうかとバス乗り場へ足を向ける。すると、後ろから羊の鳴き声が聞こえた。振り返って見ると、一匹の羊が群れから抜け出し、クラーク像の指す方へ走り出していた。

伊月まひる
私が感じた北海道を、多くの方にお伝えできればと思っております。
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