夕張保険金殺人事件を考察

1984年、北海道にある炭鉱員宿舎から出火し、作業員4名と寮母の家族2名を合わせた6名が焼死、さらに消火活動中の消防士1名が殉職、作業員1名も負傷。
しかし入院したはずの男性は病院から抜け出し、突然の行方不明。

そのあと警察へ電話し、驚くべき真実を語りました。
彼は何を伝えたのか、火災に隠された真相とは。
今回は、欲に駆られた夫婦が主導する「夕張保険金殺人事件」を解説します。

目次

事件概要

1984年5月5日午後10時50分頃、北海道夕張市鹿島栄町にある炭鉱員宿舎から出火し、この火事により全焼。
作業員4名と寮母の長女(当時13歳)、長男(当時11歳)が巻き込まれます。そして火災から逃れようとした作業員:石川清(当時24歳)も、2階から飛び降りたことで両足を骨折。
美唄災病院へ搬送されましたが、火災から2カ月後の7月18日、入院していたはずの彼は前触れなく突然姿を消したのです。

1カ月後の8月15日、失踪先の青森県青森市から警察へ通報。
「宿舎を放火したのは自分だ」と自首し、それを指示したのは日高安政(当時41歳)と妻の信子(当時38歳)だと供述しました。つまり彼は実行犯、日高夫妻が首謀者です。

犯行動機

それは、宿舎にかけられた「災保険金」と作業員にかけられた「死亡保険金」。
保険会社は、日高興業に対して合計1億3,800万円を支払いました。
保険金が支払われた理由は、警察と消防による現場検証でも事件性が認められなかったからです。

そこで指摘された原因は、宴会時のジンギスカンもしくは石油ストーブの不始末。
この日高興業の社長こそ日高安政、そして恩恵を預かる妻の信子でした。
2人は保険金目的で石川へ命令し、彼はその指示に従い新入り作業員として宿舎へ潜入。
その宴会でみんなが酔いつぶれたあと、新聞紙に火をつけ障子を燃やして炎を広げたのです。

3人の素性

事件の主犯格の3人の素性を解説します。

日高安政

誠友会「日高組」の組長。
北海道様似郡様似町で生まれ、7人兄弟の6男として育ちました。
6歳で父親を亡くしてから母子家庭、小学生の頃から素行が悪く16歳でトラック運転手や炭鉱労働者を経験。
17歳から暴力団員として生活し、26歳で結婚して娘を授かっています。

日高信子

北海道夕張市に生まれ、炭坑員の家庭で育ちました。
7人兄妹の4女で、地元で名前の知られた不良。
山野美容師学校へ通ったあと夕張市へ戻り、事務員や美容師見習いとして働きます。
やがて暴力団員と結婚して娘を授かるも、夫は癌で他界。
ホステスとして働いたとき日高と出会い、彼は妻と離婚して信子と再婚しました。

石川清

生まれは秋田県、中学卒業後に北海道札幌市にある家具店へ就職。
そのあとレストランやクラブの調理師見習いに就くも続けられず、ススキノにある風俗店の客引きとして働きます。
そこで知り合った暴力団員に誘われ、日高組へ加入。
事件当時は、入ってから約2年経過したときでした。

日高興業の成り立ち

日高と信子は、1970年から三菱大夕張炭鉱の下請会社「日高班」を興業。
炭鉱作業員を斡旋し始め、1976年には有限会社「日高興業」へ改名します。
暴力団「誠友会」の総長と知り合い、その傘下に入って「日高組」を立ち上げ、水商売や金融業を中心に手広く展開していました。

裁判の行方

石川が自首してから4日後の8月19日、日高夫妻は自宅で逮捕されました。
2人は起訴後、「放火は火災保険金が目的で、作業員の命を奪うつもりはなかった」と主張。
しかし検察側は、「作業員にお酒を飲ませたあと放火しており、殺意は明確」と言い死刑を求めます。
1987年に控訴するも、どういうわけか1988年にそれを取り下げました。
そのあと控訴審の再開を申請しましたが認められず、最高裁への特別抗告も棄却。
1997年8月1日、2人そろって死刑を執行されています。
(実行犯の石川は、自首したことで無期懲役)

【考察1】なぜ保険金詐欺だったのか

日高組を立ち上げたあと、夫は暴力行為・薬物所持・銃刀法違反で服役しました。
そのため刑務所を出入りし、商売どころではなかったのです。
しかし1981年10月、夕張新炭鉱(北炭夕張炭鉱の経営)で火災事故が発生。
原因はガスの噴出による引火で、それによって日高興業の作業員7名も死亡します。

会社へは1億3,000万円の死亡保険金が振り込まれ、遺族に保険金を支払っても手元に6,000万円残りました。
2人はその保険金で高級車を購入、事務所の新築や宝石など、さまざまなことに散財。
ですが、贅沢な暮らしは2年で終わりを迎えます。
そのため手に入れた成功体験を再現しようと、今回の保険金詐欺へ手を染めたのではないでしょうか。

【考察2】なぜ石川は日高夫妻を裏切ったのか

彼は日高夫妻から報酬500万円を約束されていたものの、実際に支払われたのは75万円。
「日高夫妻は信用できない」「もしかしたら自分も殺されるのでは…」と思い始めたことに加え、関係ない子供を巻き込み罪悪感を持っていました。

過去に東京へ逃げた人間が連れ戻され、カンナで指4本を切り落とされています。
そのため日高組のやり方を知っていた石川は、「逮捕されたほうが身の安全を守れる」と考えたのかもしれません。

【考察3】なぜ控訴を取り下げたのか

2人は死刑を受け入れたのではなく、恩赦を期待したからです。
当時の昭和天皇は病状も思わしくなく、重篤な状態が続いていました。
万が一崩御した場合、「死刑囚だから無期懲役になるのでは」と妄想。
つまり罪を悔いたわけではありません。

そもそも強盗殺人や放火殺人など、複数の犯罪を併合する死刑囚は恩赦の対象外。
どれほど期待しても、減刑されることはないのです。
ようするに最後まで自分達の保身に走り、夫婦で死刑執行される戦後初の事件となりました。

日高興業の終焉

会社は経営者が逮捕され業務も停止、そのまま倒産しました。
現場の宿舎はシューパロダム建設で町もろとも水没。
炭鉱の閉山によって限界集落となってしまった青葉町、誰も住まない自宅兼事務所は廃墟と化します。

「クレジットの信用商事」や「日高商事」という看板がかろうじて残っていますが、雪の季節を越すごとすこしづつ倒壊していき、いずれ誰からも忘れられて草に埋もれるでしょう。

※画像はイメージです。

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