以前、知床へ旅した時に斜里町のねぷた祭りを偶然見る機会がありました。
何で斜里で?というのが正直な感想でしたが、気になって調べると壮絶な歴史があったのです。
弘前ねぷた祭りは門外不出!でもなぜ斜里町で?
「ねぷた」の故郷弘前市と斜里町は昭和58年に友好都市の盟約を結びました。
これを機に門外不出とされた「ねぷた」が斜里町に伝授され、以来「しれとこ斜里ねぷた」が毎年7月下旬の週末に開催されるようになりました。
友好都市となった由縁は、約200年前までさかのぼり・・・そこには壮絶な悲話があったのです。
津軽藩、江戸幕府から蝦夷地北方警備を命じられる
時は江戸時代後期、1807年に津軽藩は蝦夷地の北方警備を命じられます。
当時北海道は蝦夷地と呼ばれ、江戸幕府の支配の下、アイヌの人たちと和人(日本本土から渡った人たち)が生活していました。
それを脅かしたのはロシアでした。蝦夷地周辺にロシア艦船が出没し、いたるところで狼藉をはたらくようになってきたのです。
このため江戸幕府は東北の諸藩に北方警備を命じ、これに呼応して津軽藩は100人の藩士を斜里へ送り込んだのです。
警備をするにも北海道の寒さに耐え切れず
斜里へ着いて監視の任についたわけですが、季節は秋から冬へと移り、やがて想像を絶する厳しい寒さが藩士を襲いました。
11月になると川が凍り、いくら着込んでも効果なく、手はかじかんで剣を持つことすらできなかったといわれています。
しだいに食事にも影響が出始め、野菜不足から壊血病がまん延し始めました。
毎日人が倒れ死んでいく
記録では11月25日に最初の死者がでると、後を追うように連日死者が出ました。
年が明けても死者は止まらず、逃げ出すものも現れましたが、全員途中で行き倒れてしまったそうです。
4月に入り流氷は去ったものの、助けの船は待っても来ない。
その後も死者は出続け総勢72名の藩士が命を絶ったとされています。
津軽藩は事実を隠蔽、でもひょんなことから明らかに!
津軽藩はこの顛末の届け出を受け取らず隠ぺいしたようです。
多くの藩士が命を落としたことは、藩の不行き届きを幕府に咎められることを恐れたといわれています。
しかし藩士の一人がこの顛末を書き認めた古文書が昭和29年に東京の古書店で発見られるのです。見つけたのは北海道大学で名の知れた歴史学の教授でした。
古文書の発見を機に斜里町と弘前市の縁が結ばれる
古文書が発見され事実が明らかになると、斜里町は「津軽藩士殉難慰霊の碑」を建立し弘前市との交流を始めました。
こうして生まれた縁から、「しれとこ斜里ねぷた」の祭りが始まることとなったのです。
このお祭りは今では夏の風物詩になっていますが、本来は壮絶な死を遂げた津軽藩士の霊を弔う祭りだったのです。
※写真はイメージです。
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