かつて一世を風靡した霊能力者が「これ以上進めない」と発言をしたことで「最恐の心霊スポット」として全国的に有名になった雄別炭鉱。
50年ほど前、そこにいたすべての住人が姿を消しました。しかし今も、ひと気のない山の奥でマチの面影をひっそりと残しています。
今回はそんな「消えたマチ」雄別の歴史についてお話ししていきたいと思います。
繁栄の面影を残す森
大規模な炭鉱事業によって栄えた雄別。現在この地区に住人は存在せず、一見手つかずの雑木林のようにも見えますが、少し奥へ分け入ってみると当時の人々の生活を窺うことができます。
象徴的なのは「雄別炭山駅」の跡地で、ホームの名残である地形の盛り上がりや陸橋とおぼしき部材の跡が見てとれます。近くには乾いた石炭なども転がっていて、かつての営業の痕跡が現在も生々しく残っています。
ビアガーデンのある近代的デパートも
この周辺は「駅前商店街」として電器屋や文具店など多くの個人店が軒を連ねていました。それらの建物はいまや基礎だけを残し、雑草の隙間からその面影を覗かせます。
一際目立つのが栄町購買会という近代的なデパートで、人々の暮らしの中心的存在でした。こちらは朽ちかけながらも、今も建物の形を残しています。
このデパートの屋上では、今で言うところのビアガーデンのような形でアルコールが提供されていました。仕事終わりの労働者たちの憩いの場として賑わっていたそうですが、そこからも当時の雄別が非常に都会的で、活気に溢れていたことがわかります。
炭鉱、鉄道とともに盛衰したマチ
周辺一帯には購買会のほか、映画館やダンスホールといった娯楽施設も多く存在しました。
元は未開の地同然だったという雄別が、なぜこのように都会的なマチになったのでしょうか?
雄別炭鉱の歴史は大正8年、今から100年以上前に創設された「北海炭砿鉄道株式会社」から始まりました。翌年には開坑作業が開始され、その4年後に本格的な採炭が始まります。
しかし多くの人々は、炭鉱や鉱夫といえば「暗くて危険な重労働」という印象を持っていました。そういった負のイメージを払拭して働き手を増やすために、運営会社は先進的な施設やサービスを拡充し、道内外から労働者を募ったのです。
その甲斐あって、営業開始から20年足らずで2,200人を超える従業員が集まりました。さらに10年後には、雄別周辺は14,000人以上が住まう立派なマチへと成長していきました。
しかしある日を境にして、わずか1年のうちにすべての住民が消え去ったのです。
「消えたマチ」今も残るレッテル
ひとつのマチが急激に無人の廃墟になったと聞けば、よほどセンセーショナルな事件があったのではと考えてしまうものです。
しかし未曾有の大災害があったわけでも、ましてや呪いなどでもありません。
ただただ業績悪化による炭鉱の閉山、一企業の判断によって、ひとつのマチと人々の生活が忽然と消えたのです。
そしてこれは雄別だけではなく、北海道の炭鉱で栄えていたすべてのマチも辿った歴史でした。
国によるエネルギー政策の転換期、つまり石炭から石油への過渡期であったことなどさまざまな要因がありました。
しかし住人の多くはまさか職場や家がなくなるとは思いもせず、今風に言えば「石炭ももうオワコンか」などと諦観しつつも、それまで同様の生活を送っていました。
石炭が厳しい時代になっていても企業は炭鉱に関する設備投資を続け、マチには次々と新しい施設が建てられていたわけですから、その先が想像できなくても仕方のないことでした。
あの有名作家も勤務していた病院
このような当時の雰囲気については、ある作家のエッセイの中にも表現されています。「失楽園」や「愛の流刑地」などの代表作で知られる作家の渡辺淳一は、かつてこの地域の病院に出張医として勤務していました。
「マイセンチメンタルジャーニィ」という随想集には、医者になりたての若い頃、雄別の地で右往左往しながら診察にあたっていたことをユーモア交えながら回顧した作品が収録されています。
そして彼の勤め先であった雄別炭礦病院こそ、80年代に人気を博した霊能力者・宜保愛子が恐れをなしたとされる「心霊スポット」なのです。
バリアフリーの先駆だった雄別炭礦病院
この雄別炭礦病院の特徴は、屋上まで螺旋状に伸びたガラス張りのスロープ回廊にあります。これはバリアフリーという概念の先駆けでもありました。当時モダニズム建築を実践し、近代的な病院のデザインを数々手がけた山田守氏の設計ではないかと考えられています。
このように先進的な施設でしたが、突然の閉山にともない、新館に至ってはわずか1年3ヶ月のうちに閉業を迎えました。旧館も火事による全焼という憂き目に遭いましたが、幸い死傷者を一人も出しませんでした。
つまり建物自体も新しく、とりわけ凄惨な事件や事故があったわけでもないため、当時を知る人ほど「おぞましき心霊スポットである」というイメージに疑問を抱いたことでしょう。
「心霊スポット」は虚像だった?
80年代をピークに批判を浴び、次第に縮小していった心霊ブームですが、雄別もまたそのブームによって仕立て上げられた心霊スポットであると言えます。
当時の雄別はすでに住人がいなくなっていたため、住民に直接被害を与えることなく、廃墟と化したマチの画が使える──とメディア都合で判断された可能性が否めません。
しかし、風評被害は今日に渡って続いています。「心霊スポット」とされてから訪れるようになった一部の心ない人間による建造物への落書きやゴミのポイ捨ても後を断ちません。
現在も地元の有志が落書き消しやゴミ拾いなどの地道な活動を行いながら、在りし日の雄別の姿を少しでも守ろうと動いているのです。
周辺を訪れる際に注意したいこと
もし「周辺を散策してみたい」と思われた方には、残念ながらあまりおすすめできないのが現状です。ここ一帯はヒグマの生息地であり、携帯電話の電波も届かない地域になっています。また時期によっては草木が深く、地面にさらされた金属や空きビンを踏んだり、空いた穴に落ちたりしてしまう危険性が非常に高いです。どうしても訪れる際には、有識者の方にガイドを頼むなどの方法を模索し、決してひとりで行くことのないようにしましょう。
雄別の歴史に興味があるという方には「古潭雄別歴史資料室」を訪れてみるのをおすすめします。阿寒市街から雄別に向かうまでの布伏内という地域にあり、膨大な数の歴史資料や展示物が並んでいます。多くの写真資料で当時の人々の暮らしをより鮮明に感じることができます。
私たちが雄別の歴史に学ぶこと
ここまで「一企業の撤退により消えたマチ」という歴史をお話ししてきました。
「雇用がなくなり人が消える」という現象は、昨今の地方では珍しいことではありません。また勤めていた会社が突然終わりを迎えるというのも、場所を問わずどこでもある話です。
時代の転換期や激動の中に立たされた時、自分ならどうするだろうか──雄別の歴史に触れることで考えるきっかけになるのではないでしょうか。 だからこそ、単なる心霊スポットとして消費されてしまうことを非常に惜しく思います。この記事を通して、雄別のマチや歴史がただ陰惨なわけではなかったんだと思っていただけたら冥利に尽きます。
\ コメントくださ〜い /