皆さんは「簡易軌道」をご存知ですか?
北海道の開拓時代から昭和中期にかけて、人々の移動や生活物資の輸送で大活躍した鉄道の一種です。特に酪農が盛んな地域では、搾りたての牛乳を運ぶという重要な役割を担っていました。
しかし最初期、その動力源は石炭でも電気でもなく、なんと馬力によるものでした。北海道の輸送を語る上で外せない「簡易軌道」がどのようにして誕生したか、その歴史について解説します。
北海道開拓と殖民軌道
簡易軌道の前身は「殖民軌道」と呼ばれていました。殖民軌道が誕生した背景には、北海道の開拓が大きく関わっています。北海道の開拓地は泥炭地や火山炭地が多いうえに、春になると雪解け水によって道路がドロドロにぬかるみ、通行は大変困難をでした。開拓にとっても大きな障害であったため、安定した輸送を確保するためにレールを敷設し、馬に引かせるという手段を取ったのです。
殖民軌道は道路の代替として道北と道東を中心に整備され、開拓時代の北海道の交通を大いに支えることとなります。1924年には厚床〜中標津間の「根室線」が開通し試用が始まると、その他の路線も次々と開通していきます。中標津停留所には多くの馬曳き客車が並び、旅客を待つ様子も見られました。
しかし殖民軌道時代は運行ダイヤもなく、上りと下りで鉢合わせた場合は荷が軽い方がレールを外れて道を譲るというルールになっていたそうです。このように殖民軌道は当時の鉄道法には準拠せずに作られており、一般の鉄道とも違う独自の用語を使用するなど、異質な存在でした。
酪農業への転換と国鉄の開通
1933年には「根釧原野農業開発5ヶ年計画」が始まります。これは不漁や農作物の不作に苦しんだ開拓者たちの救済として実施されたもので、根釧地区が酪農王国へと成長する大きな転換点となります。
この計画によって交通網の整備も加速し、1938年にかけて国鉄標津線が開通。国鉄に並走する殖民軌道は廃止され、代わりに主要駅を起点とした複数の路線が作られました。こうして植民軌道は、主要な駅からより細分化された開拓地域へ物資を運ぶための生命線となります。
簡易軌道と酪農業
戦後、殖民軌道は「簡易軌道」へと名称を改めます。この頃、すでに輸送量の多くなっていた路線ではガソリン機関車が導入されていましたが、さらに動力化が進み、1956年には初のディーゼルカーが導入されました。これに特に恩恵を受けたのが、当時本格化し始めていた酪農業でした。
「根釧原野農業開発5ヶ年計画」から始まった酪農業において、牛乳は中心的な産物でした。しかし当時の技術では牛乳の鮮度を保ち続けることが難しく、搾乳後すぐに消費地や加工場に運ぶ必要がありました。
そこで動力化が進んだ簡易軌道を利用したことで輸送量は格段にアップし、その後の酪農の発展を支えることになります。
1959年には標茶町営軌道の「標茶線」で、年間23,000本以上の牛乳缶が輸送されました。同じく浜中町営軌道や別海町営軌道でも牛乳タンク車が運行され、雪印乳業や明治乳業などの主要な加工工場に多くの牛乳を輸送しました。
簡易軌道を取り巻く環境の変化とその終焉
このように簡易軌道は、酪農が盛んな地域で特に存在感を発揮しました。しかし牛乳の輸送だけに留まらず、農作物や木材の運搬、さらには生活必需品の輸送にも重宝されました。開拓地の人々にとって簡易軌道は、地域を結ぶ大切なインフラだったのです。
しかし1960年代から、簡易軌道はその役割を徐々に失っていきました。最大の要因は、急速に進んだ道路網の整備と自動車の普及です。
トラックなどの効率的でより柔軟な輸送手段が台頭したことで、簡易軌道への補助も打ち切られました。そして1972年の浜中町営軌道「茶内線・若松線」を最後に全ての路線が廃止され、約50年に渡って北海道の生活を支えてきた簡易軌道は、その役目を終えることとなりました。
おわりに
簡易軌道は、北海道の広大な大地を結び、地域の暮らしを支えた重要な存在でした。時代の変化とともに人々の記憶も薄れつつありますが、酪農の発展を支えたという歴史は、今もなお北海道の文化の一部として生き続けています。
2018年には「北海道の簡易軌道」として北海道遺産に認定され、その歴史的価値が見直されています。
廃線後、簡易軌道の多くは舗装道路に姿を変えましたが、鶴居村の「ふるさと情報館 みなくる」では車両やレールが展示されており、今もその面影を見ることができます。北海道の発展にも大きく関わった「簡易軌道」。
当記事を読んで興味を持っていただけましたら、ぜひその歴史に思いを馳せてみてくださいね。
ふるさと情報館 みなくる
- 住所
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阿寒郡鶴居村鶴居東5丁目3
- 開館時間
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午前10時00分から午後6時15分
- 休館日
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毎月最終火曜日
年末年始(12月29日~1月3日)
※画像はイメージです。
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