古い話だが、忘れようとしても忘れられない出来事がある。
今から25年前の2月、真冬の北海道へ出張することになった。
飛行機のドアが開いた瞬間、凍りついた空気が一気に体内へ流れ込んできた。息を吸うだけで肺の奥が痛む。
関西生まれの私にとって初めての経験で、寒冷地という言葉を初めて実感した瞬間でもある。
到着後、空港でレンタカーを借りて札幌市内へ向かう。高速道路の両脇には、雪に覆われた白樺林がどこまでも続き、しばらく走ると、遠くに札幌の街明かりが見え始めた。
ホテルに到着し、チェックインを済ませて荷物を置く。長旅の疲れを取る間もなく、私は一人で街へ出ることにした。
すすきののすし屋
札幌の繁華街、すすきのの夜は積もった雪にネオンが反射し、どこか幻想的な光景を作り出していた。
人通りが多く、賑わいの中を歩いていると、ふと目に留まった小さな寿司屋があった。
暖簾をくぐるとカウンターのみのこぢんまりとした造りで、大将が一人で切り盛りしている。
カウンターの端に腰を下ろした。隣には、明らかに地元の常連と分かる二人組が座っている。
「今日は何がうまい?」
そう尋ねる客に対し、大将は慣れた様子で今日の仕入れについて丁寧に説明している。
しばらくして彼らの前に一皿が置かれると、
「うっま!」
聞き慣れた関西弁が店内に響いた。
聞き覚えのある響きに、思わず口元が緩む。同じ関西出身らしい。私はつられるように、「それ、私もください」と注文した。
出てきたのは、ニシンの刺身だった。大将は「滅多に食べられないよ」と一言添える。
見た目以上に脂が乗っていて、口に運ぶと濃厚な旨みが静かに広がった。正直、ニシンの印象が変わった。
その一皿をきっかけに、大将と少しずつ会話が弾む。
もうすこし飲みたいと思い、近くに良いバーがないか尋ねると、。大将は少し離れたビルの2階にある、とあるバーを紹介してくれた。
紹介されたバー
教えられたビルに向かい、照明が暗く古びた階段を上がり、突き当たりに年季の入った扉が一枚あった。
看板には教えられた店名が書いてある。
いかにも地方のバーといった佇まい、中に入ると、小さなカウンターとテーブル席が五つほどあるだけ。
こぢんまりとして、装飾らしい装飾はなく、生活感が残っている。
店内は静かで、音楽も流れていなかった。客の姿もない。テーブルの上に置かれた碁盤が印象的だった。
奥から出てきたのは、七十代くらいの女性だった。
派手な服装ではなく、普段着のような格好をしている。
私を見るなり、少し怪訝そうな表情で、「……何か?」とだけ尋ねてきた。
私は正直に、「一杯飲ませてもらおうと思って」と答えた。
すると女性は一瞬目を丸くし、それから少し柔らいだ声でこう言った。
「うちはね、あなたみたいな若い人が来る店じゃないんだけどねぇ」
言葉の通り、半ば断られているようにも聞こえた。それでも私は引き下がれず、
「せっかくなので、一杯だけでも」
そう言って、半ば強引にカウンターに腰を下ろした。
カウンターの上には、プラスチック容器に入ったおばんざいが四品ほど並んでいた。どれも家庭的で、店というより人の家に近い印象を受ける。
ウイスキーをロックで頼むと、女性はグラスを用意しながら、
「なんでまた、うちなんかに?」
と不思議そうに聞いてきた。
寿司屋で大将にこの店を教えてもらった経緯を話すと、彼女は少し驚いたように目を細め、
「不思議な縁だねぇ」
と、静かに笑った。
その後、どこから来たのかを尋ねられ、仕事で来たことや奈良に住んでいることを伝えると、彼女が関西を旅行した時の話、北海道の話、どれも他愛のない内容だったが、他愛のない話で妙に盛り上がる。
目の前のおばんざいは、まるで「ご自由にどうぞ」とでも言っているかのように、食べ放題だった。
思わぬこと
1時間半ほど経ち、3~4杯ほど飲んだところで、そろそろ帰ろうかと声をかける。
「そろそろ帰ります。お勘定をお願いします」
女性は迷わずキッパリと、
「五百円でいいよ」
とだけ言った。
思わず聞き返した。冗談だと思ったのだ。
「いや、それはさすがに⋯飲んだ分くらいはちゃんと払います」
そう言って財布を出しかけると、彼女は軽く手を振り、
「タダって言ったら、帰りにくいでしょう?」
と、穏やかな口調で言った。
それ以上、何も言えなかった。
言葉が出てこない。五百円という金額が安すぎるのではなく、この場に金額の話を持ち込むこと自体が、場違いに感じられた。
会計を済ませ、礼を言って店を出る。
妙な感覚が残っていた。特別なことが起きたわけではない。ただ酒を飲み、話をして、帰っただけだ。
あの夜の記憶は、今でもはっきりと残っている。
温かくて、忘れられない夜だった。
※画像はイメージです。


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