塩狩峠記念館と小説「塩狩峠」


鉄道好きには知られた塩狩駅で下車し、駅の背後の丘の上にある塩狩峠記念館を訪れました。

目次

三浦綾子文学に触れる「塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅」

「塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅」は、白樺林に囲まれた小高い丘の上に建つ木造の建物で、作家・三浦綾子氏が小説『塩狩峠』を執筆した旧宅の一部を移設・保存したものです。
和寒町制100年記念事業の一環として、もともと旭川市内で雑貨店を営んでいた三浦夫妻の旧宅が取り壊し予定であったことから、保存を望む声を受け、代表作『塩狩峠』の舞台である和寒町へ移築されました。

現在は、三浦夫妻が新婚時代に暮らした住居を再現するとともに、三浦綾子氏に関する資料を展示する博物館として公開されています。

入口を入ると、三浦綾子氏が作家活動に入る以前に営んでいた雑貨店が再現され、懐かしく思う品物が並んでいますが、展示のみなので購入はできません。
ここには受付が設けられているため、入館料を支払い見学します。

履き物を脱いで正面奥へ進むと、木のぬくもりを感じさせるホールが広がっています。複数人で囲める大きなテーブルが数台置かれており、窓の外を眺めながら三浦綾子作品を読むことも可能です。
蔵書数は多くありませんが、落ち着いて過ごせる空間となっています。

2階は、三浦夫妻が実際に使用していた家具のが示され、当時の雰囲気を感じ取ることができるでしょう。
作家デビュー作『氷点』や『塩狩峠』が執筆された当時の部屋も再現され、映画『塩狩峠』に関する資料やポスター、モデルとなった長野政雄氏に関する展示も行われています。

見学時には、来館者が自由に感想を書き残せるノートがテーブルの上に置かれ、作品への感想や来館のきっかけや思いなど、さまざまな書き込みが見られます。
私も一言記してきましたが、来館者同士の言葉が蓄積されていく点は、この記念館らしい要素の一つと感じられました。

記念館の脇に広がる白樺林には「三浦光世・綾子夫妻 歌碑の道」が整備されており、点在する石碑には三浦綾子氏と光世氏の短歌が刻まれています。
散策しながらそれらを拝読することで、夫妻の価値観や三浦夫妻の思想や創作背景を知る手がかりとなるかもしれません。

口述筆記と三浦夫妻の暮らし

三浦夫妻の執筆スタイルである口述筆記は、1966年に『塩狩峠』の執筆中に始まりました。同年12月には、光世氏が綾子氏の作家活動を支えるため、旭川営林署(現・上川中部森林管理署)を退職し、夫婦による共同の執筆体制が本格的に始まります。

記念館には来館者が実際に体験できる展示として「口述筆記」が設けられています。三浦夫妻が口述筆記を行っていた部屋を再現した和室で、机の上には用紙と鉛筆が置かれ、音声を再生するためのオーディオ機器も用意されています。
一人での見学でも音声を再生することで体験が可能で、使用した用紙は持ち帰ることができます。

小説『塩狩峠』のあらすじ

小説『塩狩峠』は、明治末期の北海道を舞台に、実際に起きた鉄道事故をもとに描かれた作品です。
主人公・永野信夫は、敬虔なキリスト者である鉄道職員として、信仰と職務の狭間で葛藤しながら誠実に生きる人物として描かれています。

1909年(明治42年)2月、塩狩峠を越える列車で重大な事故が発生します。登坂中の列車から最後尾の客車が外れ、下り方向へ暴走を始めました。
永野は乗客を救うため決断を迫られ、結果として列車は停止し、多くの命が救われますが、永野自身は命を落とします。
物語はこの出来事を通じて、信仰とは何か、人は何のために命を賭すのかを読者に問いかけます。

発行部数と評価

『塩狩峠』は発行部数300万部を超えるベストセラーとなり、13か国で翻訳出版されています。
現在、塩狩峠記念館を訪れる人は年間およそ4,000人程度ですが、作品自体は国内外を問わず根強い人気を保っています。

三浦文学は多くの読者の心を打つ一方で、作品に強く反映されたキリスト教的価値観については、読者によって受け取り方が分かれる側面もあります。

主人公・永野信夫のモデル「長野政雄」

小説『塩狩峠』の主人公・永野信夫は、実在の人物である長野政雄をモデルとしています。
長野は当時、鉄道旭川運輸事務所の庶務主任として勤務しており、事故当日は公務のため列車に乗車していました。

また、長野は旭川六条教会の信徒であり、鉄道院時代の後輩であった藤原栄吉をキリスト教へ導いた人物でもあります。藤原が三浦綾子に長野の存在を伝えたことが、本作執筆のきっかけとなりました。
なお、長野に婚約者がいたとする確かな資料は確認されていません。

藤原栄吉による事故の証言

藤原栄吉は『旭川六条教会六十五年史』において、塩狩峠事故について寄稿しています。
そこでは、長野がハンドブレーキ操作中に反動で体勢を崩し、デッキの床に張った氷で足を滑らせ、線路上へ転落した可能性が述べられています。結果として長野は客車の下敷きとなり、乗客は全員助かりました。

一方で藤原は、三浦綾子に対し「長野が転落する直前、目で合図を送ったのを見た者がいた」とも語っていたとされています。

長野政雄の信仰と行動

長野は普段から遺書を携帯しており、そこには
「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」
と記されていました。

事故の瞬間が意図的な行動であったのか、あるいは結果としての転落であったのかについて、断定できる資料は存在していません。
ただし、長野の信仰が日常生活の中に深く根付いていたことは、複数の証言から確認できます。
三浦綾子はこの出来事を通し、人が信念に基づいて行動するとはどういうことなのかを『塩狩峠』という作品に描きました。

結果として彼の行動により多くの命が救われたことは事実であり、その背景には、長野自身の価値観と信仰があったと私は捉えています。

『塩狩峠』が生まれた場所

塩狩峠記念館「旧三浦綾子宅」は、派手な展示や写真映えする仕掛けはなく、いわゆる観光地ではありません。
建物は小さく、展示の数も決して多くはありません。
しかし、当時の生活の面影が残る室内、執筆に使われた部屋、塩狩峠の線路に結びつく出来事の記録、そして白樺林に点在する石碑に刻まれた短歌を順に辿っていくと、ここが単なる記念館ではないように思えます。

三浦綾子と三浦光世が、貧しさや社会との軋轢の中で抱え続けた信仰と、それを言葉に変えながら生きてきた生活の痕跡。『氷点』や『塩狩峠』は、この中で生まれた「作品」であると同時に、三浦夫妻の「生き方の記録」だと思います。

実話をもとに描かれた『塩狩峠』の舞台である和寒町塩狩峠。
あいてそばに移築された旧三浦綾子宅を訪れるまえに、作品を読んでみてください。

※写真は許可を得ていますが、館内は撮影禁止なので写真はありません。

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