ラッコと北海道の不思議な関係

丸くて愛らしい見た目と、おなかの上で貝をカンカン叩いて割るなど食事の時もかわいらしいラッコ。
みなさんご存じ、この「ラッコ」はアイヌ語であることをご存じですか?実はラッコと北海道には不思議な関係があるのです。

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北海道とラッコ

北海道で野生のラッコが見られるのをご存じですか?北海道浜中町の霧多布(きりたっぷ)岬周辺で野生のラッコが繁殖し、年間を通じてこの愛らしい姿を見ることができます。

日本の水族館で飼育されているラッコは国際取引の規制や高齢化により減少している中、野生のラッコを見られるこの地域として注目されています。

ラッコとの共存

ラッコを見るために全国各地から人が集まり観光業界は恩恵を受ける一方、繁殖がこのまま続けば餌となる大量の魚介類が必要となります。霧多布岬で盛んなウニ漁への影響に漁業関係者からは不安の声も上がっています。

現在は大きな被害は出ていませんが、今後はラッコと漁業の共存が課題となっていくのではないでしょうか?

ラッコが招いた北方の脅威

さて「ラッコ」がアイヌ語ということは、自然と共存してきたアイヌとの深い繋がりがあるということを示しています。それは千島列島沿岸がラッコの生息地だからです。北洋で生息しているラッコの毛皮は冷たい海から防寒するために毛が高密度で柔らかく、上質なものとして取引されてきました。特に千島列島沿岸に生息するラッコの毛皮はさらに質の良いものでした。

アリューシャン列島のラッコを乱獲したため数が減って思うように猟ができなくなったロシアは、次に千島列島に目を付けます。1760年代にはアリューシャン列島の先住民であるアリュートをラッコ猟のため北千島に強制移住させました。千島列島の先住民であるアイヌにとっても、ラッコの毛皮は松前藩との高価な交易品として貴重なものでしたが、次第にロシア人たちはアイヌからラッコの毛皮を税として強制的に徴収するようになってしまいます。

1792年(寛政4年)ロシアの使節アダム・ラクスマンがアリューシャン列島に流れ着いた伊勢の船頭・大黒屋光太夫らをつれて根室に来航します。ロシアはこの大黒屋光太夫を通して日本との通商の糸口をつかもうとしますが、幕府はこれを拒絶します。その数年後にはイギリスの探検船も噴火湾に入り兵を上陸させるなど、こうした情勢を受け幕府は近藤重蔵率いる大規模な蝦夷地調査団を派遣します。

1799年(寛政11年)ロシアの南下が差し迫った東蝦夷地を幕府直轄にし、1804年(文化元年)には盛岡・弘前の両藩にロシアに対する東蝦夷地の警固が命じられました。その後、ロシアからの襲撃は樺太や礼文・利尻島にも及び、幕府は西蝦夷地も樺太を含めて直轄にせざるをえない状況になりました。1807年(文化4年)幕府は箱館に奉行所を置き、その後は松前に移し松前奉行としました。

このようにラッコを巡って千島列島がロシアからの脅威にさらされたことがきっかけで蝦夷地が注目され、地形や気候・アイヌの存在と暮らしなどが調査され明らかになっていきました。

おわりに

いかがでしょうか?ラッコと北海道の関係は、思っていたより日本と北海道の歴史に深く大きく関わるものでしたね。それを知るとラッコはかわいいだけじゃない?!と思ってしまいますが、ラッコのかわいさに変わりはありません。ぜひとも上質な毛皮にも注目して野生のラッコを見てみたいものですね!

浜中町では陸上からラッコを観察することができますので、ぜひ行ってみましょう!

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