北海道北部、日本海沿いに広がるサロベツ湿原は、稚内市と豊富町にまたがる広大な泥炭湿原です。その面積はかつて南北約27キロ、東西最大約8キロ、約1万4600ヘクタールに及びましたが、昭和40年代以降の干拓や開発で湿原面積は縮小し、現在は湖沼を含めて約6700ヘクタールほどになっています。
見渡す限り平坦で、遮るものがほとんどなく、晴れた日には遠くに利尻富士の姿が浮かぶこともありますが、霧や風で視界が一瞬で消えることも珍しくありません。
サロベツ湿原について、考察していきます。
人間が土台を作れなかった地盤、泥炭層
サロベツ湿原の地下には、何千年にもわたって堆積した泥炭層があります。
泥炭は植物遺体が分解されずに蓄積し、水を多量に含んだ状態を維持します。「天然のスポンジ」と呼ばれ、踏み固めても安定せず、重機や建物は簡単に沈み、乾燥すれば脆く崩れます。畑だけでなく、人間が長期的に定住するための基盤として適さない「扱いにくい地盤」だったのです。
明治以降、北海道の開拓政策の一環として、サロベツ湿原でも排水路や干拓、牧草地化が試みられました。しかし泥炭層をそのまま排水・平成化することは極めて困難で、根本的な地盤の不安定さを解消する事はできなかったのです。
サロベツ湿原は日本海に開かれているため、遮る森林や丘陵が少なく、強い風と厳しい気候が生活条件を悪化させました。
夏は暑さに体力を奪われ、冬は厳寒。土地改良や農業、採掘のいずれもコストと労力が利益に見合わず、生活基盤として成立するだけの恩恵をこの土地は返さなかったのです。
干拓の痕跡は、今も湿原に点在しています。それは、自然の厳しさに抗した人間の痕跡であると同時に、自然に敗れた記録ともいえるのです。
期待された利用と技術的限界、泥炭採掘
泥炭そのものの利用価値を模索して、採掘も行われました。
泥炭は燃料や肥料、土壌改良材(ピートモス)としての価値があり、1970年代から2002年ごろまで湿原の一部で採掘され、全国各地に出荷されました。
採掘は湿原内の特定の地点、たとえば湿原南側の丸山丘陵付近などで行われ、湿原内部深部の泥炭を5メートル近くまで機械で掘削した記録があります。これはおよそ5000年分の自然堆積に相当する量です。
採掘は、当初は手掘りや浚渫(しゅんせつ)機など湿原に対応した重機によって進められました。浚渫船は泥炭層にまで届く特殊な船で、泥炭を掘っては陸揚げし、ピートモスに加工して全国に出荷しました。
しかし、湿原は常に水分を保っており、雨が降れば採掘作業は中断、乾燥すれば泥炭が粉塵となって周辺生態に悪影響を与えました。また泥炭そのものは炭素純度が高くなく、燃料としての価値は限定的で。
商業的な大規模採掘を続けるにはコストが高く、利益が薄いという技術、経済的な制約があり、採掘は徐々に縮小していったのです。
泥炭採掘地は、サロベツ湿原の歴史の物理的痕跡として残っています。採掘された跡地では、泥炭採掘に伴って裸地化した部分があり、そのままでは植生が戻りにくいため、植生回復や湿原再生の研究も進んでいます。たとえば、採掘跡地における植生回復過程や外来植物の侵入に関する調査が行われ、湿原生態系の復元手法が検討されています。
現在、サロベツ湿原センターに隣接する泥炭産業館では、資料展示と共に浚渫船や掘削機を見学することができ、当時の採掘の実態を知ることができます。
採掘跡の痕跡と自然再生への取り組み
サロベツ湿原そのものはラムサール条約に登録され、本州最北端の国立公園になりました。
しかし、サロベツ湿原が原野として今も残るのは、単に保護された結果ではありません。
泥炭層という物理的条件が土地の利用を根本から制約し、採掘を試みられましたが、湿原の水分と地盤不安定性は工事の継続を難しくし、商業採算性の低さも重なって大規模な開発は成立しませんでした。
そこに、強風や過酷な気候条件が人間生活の基盤を破壊し、定住を阻みました。
結果として、人間が技術的に手を出せなかった痕跡として原野が残り、後世に価値が見出されたもの。
その姿が今のサロベツ湿原です。
※画像はイメージです。


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