釧路へ訪れた際に「雄鉄線通」という大きな道路を通った方も多いのではないでしょうか。
釧路市を東西に横断するこの道道113号線は、かつて炭鉱鉄道として活躍した「雄別炭礦鉄道」の跡地です。石炭や物資の輸送だけでなく、地域の住民たちにとっては貴重な移動手段として、その生活と発展を支えた雄別炭礦鉄道。
今回はその歴史についてお話します。
切っても切れない炭鉱との縁
雄別炭礦鉄道の歴史は、日本が北海道開拓を進めていた20世紀初頭に始まります。北海道内でも豊富な埋蔵量を誇る釧路炭田は、国内最大級の炭鉱地帯として注目を集めました。しかし、炭鉱から掘り出された石炭を釧路港へ輸送するための手段は整備されておらず、その効率化が課題でした。
そこで、雄別炭鉱の開発と同時に鉄道の建設が計画されたのです。
1921年に鉄道建設の免許が下りると、2年弱というわずかな期間で全線工事が完了します。そして1923年、「雄別炭礦鉄道」が正式に開業。雄別炭山駅から釧路駅までの約44キロを結ぶこの鉄路は、炭鉱地帯から釧路港まで石炭を運ぶ重要な役割を担いました。
この敷設工事は、驚くことにほぼ人力によって進められました。当時、第一次世界大戦後の不況により多くの労働者が職を求めており、鉄道建設にはその労働力が活用されました。
また、建設前に起こった河川の氾濫で、工事に必要な大量の砂礫が手に入るなどの幸運も重なったことが追い風になったそうです。
地域発展の中心的存在へ
雄別炭礦鉄道の開業は、釧路地方に大きな影響を与えました。石炭輸送が効率化したことで、釧路は国内外への石炭輸出拠点としての地位を確立。日本国内だけでなくアジア地域への輸出も活発になり、釧路港周辺は石炭の積み出し作業や港湾施設の整備に追われ、多くの労働者で賑わいました。さらに旅客輸送も伸び続け、最盛期にはディーゼルカーによる年間旅客数が146万人に達し、道内でも屈指の利用者数を誇りました。
鉄道沿線では、新たなまちや集落が形成されました。とくに雄別炭山周辺には、住宅や商店街だけでなく、最新の娯楽施設まで整備され、活気あふれるモダンな「炭鉱町」が生まれます。
またそれまでほぼ未開だった地域も、鉄道の発展によって釧路経済圏の一部へ組み込まれました。とくに沿線の住民にとって、釧路市街地へのアクセスが向上し通勤圏となったことは大きな変化でした。沿線では人口が急増し、学校や病院などの公共施設も設立されました。

エネルギー革命と鉄道の終焉
このように、雄別炭礦鉄道は物流インフラを超えて地域住民の生活を支える大切な存在でした。その利便性は釧路地方に発展をもたらし、多くの人々の日常生活を豊かにしました。しかし、この賑わいも時代の大きな変化には抗えませんでした。
1950年代後半、日本は「エネルギー革命」と呼ばれる転換期を迎えます。安価で効率の良い石油が世界中で普及し、石炭の需要が急速に減少しました。この影響により雄別炭鉱でも採掘量が減り始め、地域経済や雇用に深刻な打撃を与えました。
1970年、雄別炭鉱はついに閉山を迎え、石炭の採掘事業が終了。これにより鉄道の役割も失われていきます。閉山後もしばらくは臨時ダイヤで運行を続けましたが、同年4月、ついに全線廃止の日を迎えます。雄別炭鉱とともに栄えた雄別炭礦鉄道は、その歴史に幕を下ろしたのです。
廃線になってなお、歴史を伝える鉄道
炭鉱を支えていた労働者やその家族たちは、離職や移住を余儀なくされました。ひとつの産業が失われたことで、人々の生活はまた大きく変わることになったのです。雄別炭山駅の跡地には今もホームや陸橋の名残が見られ、かつての繁栄をひっそりと物語っています。
雄別炭礦鉄道の遺構は釧路各地で見られます。湿原のサイクリングロードとして親しまれる「釧路阿寒自転車道」もそのひとつで、廃線後の鉄路を利用して整備されました。舗装された道の脇には、駅のホームの名残を見つけることができます。
また雄別地区にある「古潭・雄別歴史資料室」には、雄別炭礦鉄道について膨大な数の資料が展示されています。蒸気機関車やディーゼルカーなどの写真資料も豊富なので、炭鉱鉄道の歴史に興味がある方はもちろん、鉄道そのものがお好きな方も足を運んでみることをおすすめします。

雄別炭礦鉄道が私たちに伝えてくれること
多くの人に愛され、惜しまれながら姿を消した雄別炭礦鉄道。その物語を振り返ることで、かつて石炭産業が釧路地方や日本全体の発展を支えた重要なピースであったと知る機会になるのではないでしょうか。
残念ながら、現在は「こんな街中に鉄道が?」と思うほど、その面影は薄れてしまいました。しかし「この場所に、地方の発展の要だった鉄道が走っていた」ことを知って訪れると、きっと景色が変わって見えることでしょう。
釧路で「雄鉄線通」を通った際には、ぜひその歴史に想いを巡らせてみてください!
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