幼少期、自分の住んでいる北海道の地元は、無限に遊ぶ場所があると思っていた。何歳頃かというと、自分の住んでいる町が「一時間に一本程度しか列車が来ないド田舎」であるということに気づいていなかった頃である。
そこには学校もあるし、公園も複数あるし、山の裏には興味深い山道がたくさんあるし、通学路で吠えてくる犬もいるし、気軽に上がれる友人宅がたくさんあったし、町主催の催しも結構あるし、図書館には一生かかっても読み切れない量の本があるし、チャリで遠くまで行けば駄菓子屋があったのもちょっとした冒険だった。
ここは宇宙か?
果たして私の寿命が尽きるまでにこの町を堪能しきれるのか?
そう思っていた。
そして時は流れ、私は道外に引っ越してきて久しい。
今の私の住んでいる地域を紹介するならば、「りんご飴専門店やポテトサラダ専門店すら存在するくらいには娯楽が飽和している都会」である。
時刻表なんて誰も見ないくらいの頻度で列車が走っている。(私は今でも交通系ICカードはKITAKAをを使い続けている)(道産子なので当然である)
そんな私が最近、改めて北海道の地元を訪れてみた。
感想としては、結論から言って、そこはマリオの1-1面くらい、あるいはポケモンのマサラタウンくらい狭くて何もない場所に感じられた。
もう少し詳しく書こう。ある日の私は観光目的で地元を訪れて、「今日の目標は、この町の全てを写真に収めることだ」と意気込み、懐かしの場所を巡った。
あまり目新しい変化はなく、あの頃から時間が止まっているかのようだった。一句詠みたくなるような風情と哀愁がある。
ここで一句、「ふるさとや そんなに変化 せーへんか」
オイオイ、肌寒くなってきたな。
「なつかしの 河原があるが かわらない」
オイオイ、あるのにないのかよ。
なんて自分と会話しながら歩いていたら、3時間足らずで町内を一周できてしまった。何てこった。
町が縮んだのだろうか?否・・・
思うに、私の歩幅が大きくなったのもあるだろうが、なにより視界が狭まったから街も小さく感じるのだろう。
子供の頃は、「信号が変わる秒数」を交差点ごとに暗記して、友人とそこを通りがかったときに「あと10秒で信号が変わるよ」と言い当てて予言者ごっこをしていたし、横断歩道の黒い所を踏むと奈落の底に落ちたし、マンホールは踏むたびに爆発したし、セミの抜け殻に交換レートをつけていた。町の全てが視界に入っていた。
しかし大人になった今はどうだろう。街を散策しても視界に入るのは専ら飲食店や売店ばかりである。あの頃と違い、建築廃材の山を見ても宝の山には見えなかった。
大人の定義は「有料の娯楽しか嗜まなくなったら大人」なのかもしれない。何もない田舎町を散策したときにその町を楽しめるかどうかは、町次第ではなく自分次第で決まるのだ。
そんなことを嘆きながら、山に登って街を一望した。
あぁ…
なんだかんだ言って私はこの町が好きだ。
私の両親はわざわざド都会からド田舎に移り住んで私という子を設けたのだが、その気持ちも今ならわかる。私の両親が北海道で居を構えた場所は、車のクラクションを鳴らしても隣家にギリ聞こえないくらいだだっ広い畑のど真ん中であり、雑念も吹き飛ぶような解放感があった。都会に住んでみてわかったが、それは当たり前のことではなく、特別な環境だったんだな。
都会は窮屈だ。賃貸部屋でギターでも弾こうものなら「壁ドン」という名のバスドラムがジャムセッションしてくるのがオチだ。
もしあなたが都会の雑踏に疲れているなら、マジで何の観光地でもない北海道のド田舎を散策して感慨に耽り、一句詠んでみてもいいのかもしれない。
まよいがあってもまーよい。意気揚々と生きようよ
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