赤平市炭鉱

北海道に数多く存在した炭鉱の中で、住友赤平炭鉱は独特の位置づけを持つ存在であります。
当時の資料をもとに、その特徴と背景を整理していきます。

目次

住友赤平炭鉱の成立と背景

住友赤平炭鉱が操業を開始したのは1939年(昭和14年)である。閉山は1994年(平成6年)。約半世紀にわたり稼働した炭鉱です。
赤平市は北海道空知管内に位置し、この地域は日本有数の炭田地帯として知られていました。
空知炭田の存在が広く認識される契機となったのは、松浦武四郎による空知川流域での石炭発見であり、その後、明治7年に榎本武揚やベンジャミン・スミス・ライマンらによる本格的な地質調査が行われます。
これにより、空知一帯に大規模な石炭埋蔵が確認され、炭鉱開発が本格化しました。

その中で住友赤平炭鉱は、単なる一採炭現場ではなく、住友グループにおける中核の炭鉱として計画された存在だったのです。

フラッグシップ炭鉱としての設計思想

住友赤平炭鉱の本質は「東洋一」といった表層的な称号だけではありません。重要なのは、将来を見据えた設計思想にありました。

立坑は深度約650メートルに達し、立坑櫓は高さ約55メートルを誇りました。
これらの数値自体も当時としては国内最大級ですが、より重要なのは、巻上機を含む設備が実際にさらに深い領域に対応可能な能力を備えていた点であります。
さらには、深部での安定運用、安全性、長期稼働を前提とした信頼性を重視し、機械化、近代化を積極的に導入することで、将来的な採掘にも対応可能なモデルケースとして設計されていました。

炭鉱夫の労働と坑口浴槽

こぼれ話になりますが、炭鉱のガイドツアーに参加した際のことです。
通常は立ち入ることのできない坑口浴槽を見学したとき、「出勤者以外の入浴を禁ズ」と記された当時の看板が目に留まりました。意味が気になり、案内してくださったキュレーターの方に質問しました。

炭鉱では坑内作業が交代制で行われ、作業に従事した炭鉱夫たちは石炭粉塵に常時さらされ、作業後に地上へ戻る頃には、身体は煤と泥で覆われていたといいます。作業後すぐに汚れを落とすため、ほとんどの炭鉱で大きなお風呂が設備として設けられていました。
ところが当時は、一般家庭に風呂が備えられていない家も多く、炭鉱関係者以外がこっそり利用するケースが増えていったそうです。その結果、無断利用が問題となり、それを抑制する目的で「出勤者以外の入浴を禁ズ」という掲示が設けられた、との説明でした。

そのほか、炭鉱は非常に広い範囲にわたっているので、坑内移動用の人車を、実質的に電車の代わりとして、買い物などの足として利用する人もいたそうです。このことからも、当時の炭鉱内の運用には、現在の感覚では考えにくいほど緩やかな側面があったそうです。

余力を残したまま迎えた閉山

そうして、エネルギー政策の転換により、石炭産業全体の衰退によって住友赤平炭鉱は閉山します。
炭層の枯渇や技術的行き詰まりではなく、結果として深部採炭に対応可能な設備と技術を保持したまま、炭鉱はその役割を終えることになりました。

この点において、住友赤平炭鉱は日本の炭鉱史の中でも特異な存在だといえます。
「掘れなくなったから終わった炭鉱」ではなく、「掘れる状態のまま、掘る意味を失った炭鉱」だと言えるのです。

住友赤平炭鉱は現在、採炭機能こそ失われていますが、当時の姿をとどめたまま赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設として保存されています。
炭鉱内部へ立ち入ることはできないものの、ガイドツアーでは施設内部が見学でき、ケージやトロッコ、巨大な巻上機などを間近で見ることができて、かつて稼働していた炭鉱を実感できます。
写真や資料だけでは伝わりにくい空気や距離感を知るためにも、現地を訪れてみる価値は十分にあるでしょう。

※写真はイメージです。


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