忠臣蔵の逸話を聞いたことがありますか?
1701(元禄14)年、赤穂藩主・浅野内匠頭が将軍家の儀典長・吉良上野介との諍いで彼を切りつけたとして切腹させられた事件を受け、1702(元禄15)年12月14日に家臣たちが浅野内匠頭の敵討ちの為に吉良邸に押し入り、吉良を打ち取った「赤穂事件」がもとになった逸話です。
翌年の2月4日、忠義な侍たちは法に従って罰せられ、人々に惜しまれながらも切腹によりこの世を去りました。彼らは直ちに東京都高輪・泉岳寺に埋葬されています。
北海道とのゆかり
赤穂事件からおよそ200年後、金沢市に育った皆上正学という住職が、縁あって北海道砂川市(当時は滝川町)の空知太というところにお寺を構えました。彼は赤穂浪士の熱烈なファンであったため、お寺に義士たちのお墓を建てて「泉岳寺」と名乗ろうとしていました。東京から遠く離れた北の大地からでも、忠義を尽くした侍たちを供養しようとしたのです。しかし、高輪の泉岳寺に「泉岳寺と名乗らせてほしい」と陳情したところ、許可を得ることはできませんでした。住職は、仕方なく同音異口の「泉学寺」を名乗りました。
お寺の建立から11年が過ぎた1943(昭和18)年、初代住職の孫・皆上誠信住職がお寺の二代目住職となりました。彼は祖父の志を引き継ぎ、泉岳寺に「名乗らせてほしい」と交渉していましたが、断られ続けていました。
2年後の1945(昭和20)年、北海道空襲の翌月に日本は終戦を迎えます。道内・国内は大混乱し、道義(人の行うべき正しい道)の敗退はこれまでにないほどのものだったといいます。「今こそ義士墓を建立し、腐敗した社会風潮の再建を助けなければ、日本が危ない」と考えた皆上住職は、当時の総代・三浦氏の知人らを介して請願運動を再燃させました。
翌年、泉岳寺からついに内諾がありました。皆上住職らは、義士討ち入り日の12月14日に「北海道四十七士義士霊地建設世話人会」を結成し、お祝いしたそうです。
次の年の2月4日、つまり四十七士切腹の日に、泉岳寺より「北泉岳寺と名乗ってもよい」
という承認書が届けられました。「義士精神を奉賛し義士墳の土を移して四十七士の墓を設立し泉學寺を北泉岳寺と改(判読できない文字)する伴を承認し其の好學を賛助す」と記された承認書は、住職らをどんなに喜ばせたことでしょう。
こうして分霊式が行われ、義士の墓の土を四十七個の木箱に分けて持ち帰り、承認から3年後の昭和31年に高輪・泉岳寺義士墓と寸分たがわぬ墓所を建て、盛大な開眼、入魂祭が挙行されました。
北海道義士祭
こうした祖先の功労を経て、砂川市の北泉岳寺では毎年12月14日に「北海道義士祭」が開催されています。65年目を迎えるこの祭りでは、居合奉納や墓前祭・吉祥祈願などが執り行われ、現在の皆上住職とともに鎮魂の祈りを捧げます。
参加者たちが義士に扮して市内を練り歩き、勝ち鬨を上げる様子は圧巻です。その他、甘酒やそばの振る舞い、つきたての餅まきや抽選会などが行われ、北泉岳寺の境内は多くの人で賑わいます。かつて2代目住職らが願ったように、義士墓の建立から明るい波紋が広がっていったのかもしれません。
さいごに
四十七士のひとり・吉田忠左衛門は和歌に秀でていたとされ、彼の辞世の句は次のようなものです。
君が為思ひぞ積る白雪をちらすは今朝のみねの松風
辞世の句とは、死を前にしてこの世に書き残された詩的な短文のことです。彼はこの句を討ち入りに先立って詠み、討ち入りの際はこの句を書いた短冊を兜の裏に縫い付けていたそうです。失敗すれば殺され、成功しても極刑は免れないと分かっていながらも「君が為」と出陣した前の日には、真っ白な雪が降っていたのでしょうか。だとしたら、雪が降り積もる北海道の地だからこそ、当時彼らが経験したはずの生々しい寒さや、冷たい決意が、身近に感じられてきませんか。
北泉岳寺には四十七士の墓の「土」が納められているのみですが、その背景には、かつて義士墓建立のために尽力した住職らの想いがあり、私たちが60年以上の長きにわたり義士祭を開催し、その心を偲び続けてきたことこそが、北泉岳寺を「忠臣蔵ゆかりの地」たらしめています。彼らが示してくれた道義の心がかつて住職や人々を支えたのだとしたら、私たちの鎮魂の祈りもまた彼らに届き、その心を慰めていると思いたいものです。
北海道在住の26歳。
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