かつて、札幌という場所は二つ存在していました。
一つはよく知られる『札幌市(当時は区)』、明治時代から発展していった街です。
そしてもう一つが『札幌村』です。
村という言葉は聞き慣れないかもしれませんが、実はこの札幌村は江戸時代から開拓されており、明治時代から発展していった札幌とは別のものとなっているため、行政まで違っていたのです。
また、現在食されている玉ねぎと札幌村には、意外な関係がありました。
今回は、「札幌村郷土記念館」で学んだ札幌村と玉ねぎの歴史について、追っていきたいと思います。
大友亀太郎という人

札幌村の開拓において重要な役割を果たした人物についての紹介です。
その名は『大友亀太郎』。
慶応2年、江戸幕府から命じられ、蝦夷地の石狩の原野(現在の札幌市東区付近)にやってきて、そこを『サツホロ』と名付け、開拓に着手しました。
これが『札幌村』の起源となっており、明治以降の札幌開拓の先駆的な役割を果たしたのです。
彼が開拓に訪れた際には『三十年計画』という途方もない計画が立てられており、その中には、現在の創成川の元となった4㎞もの用水路や道路の整備があり、移住者が暮らしやすい環境が整えられていましたが、志半ばにして明治3年に北海道を去ることとなりました。
しかし、彼が去った後も移住者は増えていき、札幌村は栄えていきました。
大友亀太郎なくして、札幌の発展はなかったといっても過言ではないでしょう。
現在の札幌市との違い

亀太郎が開拓に着手した札幌村が慶応からあったのに対し、開拓使として札幌ができたのは明治に入ってからの話で、現在の札幌は明治時代からできた札幌の影響が強いです。
なお、札幌市(当時は札幌区)も札幌村も、それぞれ行政があったため、同じ名前でも別の場所だったことが分かります。
札幌村には16代まで村長がいたそうです。
札幌村と玉ねぎ

札幌村が栄えていた頃、明治9年にクラーク博士が初代教頭になった札幌農学校には、広大な農校園がありました。
クラーク博士は1年ほどで帰国しましたが、帰国した同年に『ウィリアム・P・ブルックス』が着任。農校園を引き継ぎました。
ここでは試行錯誤を繰り返しながら玉ねぎを栽培しており、肥沃な大地と排水の良さから、札幌村は玉ねぎ栽培に向いていると考えられ、導入することになりました。
そこで栽培に選ばれたのが、『イエロー・グローブ・ダンバース』という品種でした。
しかし、玉ねぎはもともと西洋の野菜です。
玉ねぎは炒めたりすることで美味しくなりますが、当時の油は主に灯りとして使用されていたため、日本人にはなじみのない食べ物でした。
あったとしても、おそらくは味噌汁に入れるくらいでしょうか。
そこで、海外では玉ねぎを食べる文化があったことに目を付けたブルックス博士は、玉ねぎを海外に輸出することを提案しました。
さっそく、札幌村で玉ねぎ栽培が始まりました。
ブルックス博士は札幌農学校を卒業した第一期生の佐藤昌介を助手に、農家への自家採種技術の指導に力を入れ、採種用の母球の選抜・改良の研究を重ね、ようやく風土に適した高品質の玉ねぎを生産することに成功したのです。
この玉ねぎはイエロー・グローブ・ダンバースを多年栽培したものとして、『札幌黄』という品種として発表されました。
現在は札幌市内の東区の名産品として知られています。
札幌村郷土記念館

かつて札幌村があったことと、札幌における玉ねぎ栽培の始まりについて書かせていただきました。
大友亀太郎が札幌村を開拓し、ブルックス博士が玉ねぎ栽培の指導をしていなければ、今日の私たちの食生活は変わっていたかもしれなかったのです。
今では様々な調理方法が考案されている玉ねぎ。
改めて札幌村について学んだことで、個人的な玉ねぎに対しての認識も変わったように思いました。
札幌村郷土記念館では、他にも沢山の開拓に関する資料や古民具が展示されています。
興味深い発見ができますので、訪れてみてはいかがでしょう?


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