北海道の城郭は、本州のそれとは成り立ちが決定的に異なります。
渡島半島に点在する城跡は単なる権力の象徴ではなく、「異民族」や「外圧」との境界線上に築かれた最前線の拠点であったと言えます。
中世から幕末にかけて本州の権力が如何にして「北の異境」を侵食し、境界線を画定させていったか?
函館から松前、上之国へと至る道程を通じ、四つの城郭遺構から私の考えを交えて読み解いていきます。
志苔館
函館空港からほど近い、海岸段丘に位置する志苔館。
14世紀、本州から渡海した豪族・小林氏が築いたこの館は、中世和人居館の典型でありますが、単なる地方領主の居所ではありません。
1968年に発掘された38万枚を超える中国銭は、この地が北方の資源を本州へ流し、莫大な富を生み出す「交易の心臓部」であったことを証明しています。
しかし、その繁栄は常にアイヌ民族との衝突という危うさの上に成り立っているのです。
1457年の「コシャマインの戦い」において、志苔館はアイヌの猛攻に晒され、落城の憂き目にあいます。
海を背負い、陸側を深い空堀で断絶させたその造形には、当時の和人が抱いていた「いつ背後から襲われるかわからない」という、震えるような恐怖と野心がそのまま形となって現れだと思えてなりません。
五稜郭
函館の象徴、五稜郭。
1864年に竣工したこの城郭は、日本の城の概念を根底から覆す、西洋軍事論理の結晶です。
武田斐三郎が設計した「稜堡式」の幾何学的な星形は、死角を徹底的に排除し、十字砲火によって敵を殲滅するために計算し尽くされた角度で構成されています。
箱館戦争の極限状態において、土方歳三らがこの星形の防壁の内側に見出したものは何だったのでしょう。
それは、潰えゆく幕府への忠義という名の「旧時代の執着」か、あるいは北の大地に新たな秩序を夢見た「新時代の胎動」か?
今もなお、稜堡の先から津軽海峡を望むその視線の先には、かつての「蝦夷共和国」という儚い夢の残滓が、冷たい海風とともに漂っているように感じます。
松前城
日本最北の日本式城郭、松前城(福山城)。
1604年に徳川家康からアイヌとの交易独占権を認められた松前藩は、米の穫れない寒冷地でありながら、交易の利によって「大名」の地位を維持し続けました。
併設された資料館に並ぶ豪華な衣装や交易品は、アイヌとの不平な交換によって得られた搾取の記録であり、華やかさの裏側には、和人による統治の冷徹さが伺えます。
幕末、ロシアの南下という新たな「外圧」に直面した際、彼らが選んだのは伝統的な日本式天守の再築です。
海上からの艦砲射撃を意識した設計を取り入れつつも、その白壁の天守は「ここは文明国・日本の領土である」と世界に叫ぶ看板としての役割をもたせました。
しかし、1868年の箱館戦争では、土方歳三率いる旧幕府軍の奇襲によりわずか数時間で落城。華麗な天守閣は、近代兵器と実戦論理の前では脆くも崩れ去る、過去の遺物であることを露呈したのです。
上之国勝山館
日本海を望む上之国勝山館。
建物は現存しないが、広大な台地に広がる遺構は他の追随を許しません。
志苔館が陥落した混乱期、和人側の救世主として現れたのが武田(のちの蠣崎・松前)信広である。彼が道南の覇権を確立する拠点とし、もはや城という概念を超えた「防衛機能を備えた植民都市」です。
山全体を要塞化し、内部に住居、工房、さらには墓地までを完結させたこの巨大遺構は、未開の地に本州の秩序を強引に持ち込もうとした支配者の執念を物語っているようです。
特筆すべきは、発掘された和人とアイヌが混在する墓地跡です。
これは単なる融和ではありません。文化の差異を取り込みつつ、中心部には厳格な和風建築を配し、アイヌを管理下に置くという、包摂による支配のプロセスだといえます。
四城要塞群巡りってみて
渡島半島の四城を巡ってみて感じたのは、北海道は思った以上に血と野心に満ちた大地だと言うことです。
和人が「蝦夷地」という未知の原野に対し、いかにして自らの領域を拡張し、防衛線を築き上げてきたかという、数百年にわたる生存戦略なのでしょう。
※画像はイメージです。


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