釧路地方の郵便の歴史

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私たちが普段何気なく利用している「郵便」。
その礎となった新式郵便制度は、1871年、飛脚に代わる国営の通信制度として開始されました。翌年には全国をカバーすることを目指し、北海道にも通信網は広がりますが、厳しい冬の環境やその広さもあって、後志・胆振地方から北の地域は含まれませんでした。

今回は、道東に位置する釧路地方ではどのように通信網が発達していったのか、その歴史について解説します。

目次

釧路地方の郵便の始まり

釧路地方における郵便制度の歴史は、新式郵便制度の開始から約2年半遅れた1874年12月1日に、釧路郵便役所が設置されたことに始まります。

翌年には釧路管内の白糠や厚岸などにも局が置かれ、海岸に沿った形で通信網が整備されていきました。そして、1876年には全道一周を達成します。
はじめは沿岸部を中心に置かれた郵便局ですが、集治監の設置や硫黄鉱山の開発とともに内陸部にも広がっていきます。1887年に標茶郵便局、1893年に弟子屈郵便局、1904年には現在の阿寒郵便局が次々と開局。釧路管内の郵便は地域とともに発展していきました。

郵便物の増加と地域の発展

経済の発展にともない、郵便物の取扱量も急増しました。1898年には年間約60万通だった郵便物は、1918年には1,000万通を超えるまでに増加。これには、1901年からの国鉄の開通によって、より多くの郵便物が運べるようになったことも影響しています。1920年代からは釧路炭田の開発が盛んになり、新しいマチが形成されたことで新たな郵便局の開局も相次ぎます。1924年に湧別炭山郵便局、1930年に尺別炭山郵便局など、炭鉱産業に関連した開局が目立ちました。

その後さらに鉄道網が整備され、開業した駅の近くにも新たな郵便局が置かれます。この頃は北海道第二期拓殖計画により、道の人口の倍増を目指して釧路にも入植が進められていました。関東大震災の被災民など、本州からの移民受け入れも手伝って、より釧路地方の郵便や通信の需要は高まりました。

配達を支えた北国の逓送人

そんな目覚ましい発展を迎える一方、釧路地方の郵便配達は厳しい自然環境の中で行われ、とくに冬季は過酷を極めるものでした。その象徴的な出来事として、1922年に発生した「吉良平治郎の遭難事件」があります。

当時、郵便配達員は「逓送人」と呼ばれていました。アイヌ民族の逓送人であった吉良平治郎は、釧路市と釧路町を結ぶ片道16キロの道のりを徒歩で配達していました。
ある暴風雪の日、彼は「郵便を待っている人がいる」と郵便局を出発し、吹雪の中で遭難してしまいます。そのような環境下でも、彼は自身のマントで郵便袋を包んで必死に守りました。平治郎は帰らぬ人となってしまいますが、郵便物には一切損傷がなかったと伝えられています。

この出来事は、戦前においては「忠君愛国」「滅私奉公」の象徴として、映画化や紙芝居化、教科書への掲載もされ、広く知られることとなりました。その功績は時を越え、2022年には「責任と命の大切さを伝える」ことを目的にアニメが制作されるなど、現代に語り継がれています。

このように、開拓地での郵便事情は大変厳しいものでした。道北や根室管内でも似たような状態だったようで「冬季には1〜2名の殉職者がいた」と伝える新聞記事も残っています。

局舎の近代化と戦時下の郵便局

1920年代以降の炭鉱業の発展により道東の中心都市となった釧路を象徴するように、1928年に釧路郵便局の新局舎が完成します。この局舎の設計者は、逓信建築の第一人者で、のちに日本武道館の設計も手がける建築家・山田守といわれています。木造2階建てのこの建物は、曲線とシンメトリーで構成された近代的なデザインをしていました。

日中戦争が始まった1937年、政府は増加した戦費の調達に、国民が金融機関に預けた預貯金を充てることを計画します。翌1938年に「国民貯蓄運動」が始まると、郵便局の役割は郵便貯金や簡易保険、郵便局が取り扱う国債などが中心になりました。また、戦時下においては「軍事郵便」が活発になり、戦地に赴いた兵士とその家族をつなぐ大切な役割を担いました。

産業縮小にともなう廃止と郵便局の現在

釧路は戦後も人口増が続き、1980年代まで市街地での開局が相次ぎました。1987年には釧路郵便局が取り扱った郵便物は年間2,780万通に達します。しかし、時代とともに変化が訪れます。とくに1970年ごろ発生した主な炭鉱の閉山と、それに伴う産業環境の変化の影響は大きく、過疎化が進んだ地域では郵便局の廃止が続きました。

現在、釧路管内には81の郵便局があります。過疎化した地方における郵便局は、単なる手紙や荷物の取扱所にとどまらず、地域住民の生活を支える重要なインフラのひとつとして機能しています。

今だからこそ考えたい「伝えること」

釧路地方の郵便は、開拓期から現在に至るまで、人々の生活に密接に関わっています。明治時代の郵便役所設置から始まり、大正時代の郵便物の急増、逓送人の奮闘、昭和期の近代化を経て、その歩みは150年の節目を迎えました。

デジタル化が進んだ現代では「手紙やはがきは古い」と捉えられがちです。しかし開拓期、人から人に言葉や想いを伝える手段として通信網の整備を進め、厳しい環境の中郵便物を運んだ人々がいたことを知ると、何気なく利用していた郵便のイメージも変わるのではないでしょうか。
そして、すぐに言葉を伝えられる今こそ「時間をかけて書いた手紙を一通出す」ことの価値が、より増して感じられるかもしれません。

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