安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄

私は毎年、道の駅めぐりをしています。
美唄には道の駅がないから通り過ぎていたのですが、ふと、せっかく何度も通っているのだから、なにか面白いものがあるかもしれないと寄って見ることにしました。

そこで見つけたのが「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」です。
「ここ、本当に美術館なのか?」と思うくらい、普通の美術館とは雰囲気が違いました。

目次

アルテピアッツァ美唄

アルテピアッツァ美唄は、美唄出身の彫刻家・安田侃さんの作品を展示している美術館です。

安田侃さんは、道民ならほぼ知っている、札幌駅南口にある真っ白で穴の空いた「妙夢」を手がけた彫刻家で、東京ミッドタウンやニューヨークにも作品が設置されています。
国内だけでなく海外でも活動している、思いの外、有名な作家なのです。

敷地はかなり広く、建物の中だけではなく、芝生や木々の中に大小さまざまな作品が置かれて、歩きながら一つひとつ見て回れるようになっています。
私が訪れたときには、彫刻の上に乗って遊んでいる子どももいて、美術館というより、公園のような雰囲気でした。
実際に歩いてみると、彫刻を見に来たというより、広い敷地そのものを楽しみに来たような感覚になります。

敷地内にはカフェもあって、ゆっくりと作品に触れてまわれる仕組みになっています。
ここまで充実しているのに、入場料は無料なのが驚きです。

なぜ美唄にこんな美術館があるのか

アルテピアッツァ美唄を訪れて、「なぜ美唄にこんな美術館があるのだろう」と思う人も多いと思います。
その理由を知るには、まず、この場所がもともとどんな土地だったのかを知る必要があります。

アルテピアッツァ美唄がある場所は、もともと炭鉱で栄えた地域でした。
美唄では明治時代から石炭の採掘が行われ、昭和に入ると炭鉱業が町の大きな産業となっていきます。

炭鉱で働く人とその家族が集まることで人口も増え、炭鉱住宅が建ち並び、学校や商店などもつくられていきました。
美唄の人口が最も多くなった1960年代前半には9万人を超え、現在の美唄からは想像しにくいほど、多くの人が暮らしていたのです。

ところが、エネルギーの中心が石炭から石油へと移っていくと状況が変わります。
国内の炭鉱は次々と閉山し、美唄でも炭鉱の閉山が相次ぎ、1973年には市内のすべての炭鉱が閉山します。

炭鉱がなくなれば、そこで働いていた人たちも暮らし続ける理由を失います。炭鉱の閉山とともに多くの人が美唄を離れ、人口は急激に減少しました。
かつて炭鉱で発展した地域は、次第に寂れていき、学校も同様に影響を受けます。

アルテピアッツァ美唄の場所にあった栄小学校も、1959年には1250人もの児童が通っていましたが、炭鉱の閉山によって、当然ながら子どもの数も減っていき、ついに1981年に閉校。
役目を終えた校舎だけが取り残されました。

廃墟からアトリエへ

1985年頃、アトリエを探していた安田侃さんに、美唄市から廃校になった栄小学校の体育館を使ってみないかという話が持ちかけられます。
訪れてみると、体育館の周囲は雑草や高い藪に覆われ、床は腐り始め、天井からは雨漏りし、最初から現在のような美術館になることを想像できる場所ではありません。

それでも安田侃さんは、作品を置き始めます。
体育館の中に彫刻が少しずつ置かれるようになると、この地に残されていた幼稚園の子どもたちが窓から作品をのぞき込む姿が見られるようになります。
これが、現在のアルテピアッツァ美唄につながっていきました。
安田侃さん自身、子どもたちが元気は姿を見たことが、この場所をつくるきっかけになったと振り返っています。

その後、1991年には旧栄小学校の体育館が交流スペースやアートスペースとして整えられ、1992年7月には野外スペースも整備され、最初に5点の作品が展示されます。

少しずつ展示が増えていきつつ、1997年に水の広場がつくられ、1998年には旧栄小学校の校舎も活用されるようになりました。1999年には木造校舎の2階がギャラリーとなり、現在では敷地内に約40点の作品が展示されています。

最初から「美術館をつくろう」とした訳ではありません。
使われなくなった学校の体育館の再利用から始まり、作品が置かれ、やがて屋外や旧校舎にも展示が広がり、現在のアルテピアッツァ美唄が形づくられていったのです。

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