北海道の稲作に貢献した「中山久蔵」

我が国に伝わった稲作はあっという間に日本列島を北上し、本州北端まで稲作が行われるようになり、弥生時代の到来となりました。ところが津軽海峡を越えて北海道で稲作が行われることは長らくありません。それだけ稲作にとっては北海道の気候が厳しいものであったのです。

北海道の稲作に貢献した、中山久蔵を紹介したいと思います。

目次

北海道と稲作

江戸時代の元禄5年(1692年)に農民作右衛門が人々の定着を後押しするために米栽培を行ったことが、北海道での稲作の始まりと言われています。
ようやく嘉永3年(1850年)に、大野村の高田松五郎―高田万次郎親子が米を栽培して収穫と呼べるほどの収穫量を実現しました。
明治6年(1873年)には、現在の北海道北広島市の中山久蔵(なかやまきゅうぞう)氏が寒さに強い「赤毛種」という品種で寒地稲作に成功し、これを基に稲作は全道に広がりました。

中山久蔵と赤毛種

中山久蔵氏は文政11年(1828年)に大阪府南河内郡太子町に生まれ、維新の後に開拓を志して北海道に移住してきました。
その方法は、寒冷地に比較的強い赤毛種の稲を育て、その中から寒冷地でもよく育った稲を選び、そのもみを翌年に栽培するという作業を繰り返していったものです。
これは一般的な品種改良の方法で、たとえば甘柿もこの方法で作り出されたと言われています。
他にも川から水田に水を直接引き入れることはせずに、いったん溜めて日光を当て温めてから水田に引き入れるような工夫も施しました。

「赤毛種」は北海道内の各地の開拓農民に無償で分け与えられ、北海道の各地に稲作が広がってゆきました。
新品種を創り出すだけではなく、北海道の稲作の規模拡大にも尽力を尽くし、明治36年(1903年)に緑綬褒章を受賞されました。

今にも伝わる北海道の米

「ゆめぴりか」は、赤毛種の子孫です。
中山久蔵氏や様々な人々の努力の結果によって、高級ブランド米まで栽培されるようになったのです。

※画像はイメージです。

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